一階から吹き抜けへ続く中央通路は、休日のショッピングモールを模しただけあって、無駄に広く、そして妙に静かだった。
本来なら買い物客の喧騒が満ちるはずの空間にあるのは、人工照明の白い光と、訓練用に配置された無人の店舗群だけ。
屋内訓練場――ショッピングモール区画。
開始前にヴィラン側へ与えられた五分間の準備時間。
その限られた猶予の中で、孫玄麗は慌てる様子もなく通路を歩いていた。
足音だけが、硬い床に小さく反響する。
「さて……」
爆弾の設置位置までは、まだ少し距離がある。
急ぐ必要はあるが、無駄に走れば気配を残す。
玄麗は視線だけで周囲を流しながら、利用できるものがないかを探していた。
そのときだった。
工事中を想定して置かれていた資材置き場の隅に、無造作に積まれた袋が目に入る。
灰色の厚手の袋。
表面には大きく印字された数字――二五kg。
「……生セメントか」
しゃがみ込み、袋の端を軽く叩く。
中身はしっかり詰まっている。
重量も十分。
持ち上げれば、ずしりと肩に重みが乗った。
普通の生徒なら顔をしかめる重さだが、玄麗は眉ひとつ動かさない。
むしろ、その黄金の瞳がわずかに細まった。
「これは良いね」
小さく呟く。
何か使い道を思いついたとき特有の、静かな声音だった。
そのまま袋を肩へ担ぎ直し、何事もないように再び歩き出す。
目指すのは、爆弾が設置されたエリア。
広い通路を抜けながら、黒い半纏の裾がわずかに揺れた。
その背中には、二十五キロの灰色の袋。
そして表情には、まだ誰にも読ませない算段が浮かんでいた。
爆弾の設置エリアは、モール中央のイベントスペースを模した吹き抜け脇だった。
広い床面にぽつんと置かれた訓練用爆弾は、無機質な金属光沢を放ちながら静かに存在している。
玄麗は肩に担いでいた生セメントの袋を足元へ降ろし、周囲を一度だけ見回した。
人影はない。
時計は静かに準備時間を削っていく。
「……二メートル――いや」
袋の口を裂きながら、小さく呟く。
「念のため、三メートルにしておくか」
灰色の粉がさらりと床へ落ちる。
彼女は袋を傾けながら、爆弾を中心にゆっくりと円を描くように歩いた。
薄く、均一に。
厚く盛れば不自然に目立つ。
だが薄すぎれば意味がない。
床に溶け込むぎりぎりの量を見極めながら、慎重に撒いていく。
半径三メートル。
灰色の輪が、白い床の上にうっすらと浮かび上がった。
遠目には、工事現場の粉塵が残っている程度にしか見えない。
最後に残った粉を軽く払うと、玄麗は袋を脇へ寄せた。
そして何事もなかったかのように爆弾へ背を預ける。
腕を組み、静かに目を細める。
広い訓練場は、息を潜めたように静まり返っていた。
まだ開始の合図はない。
だが、その沈黙の向こうに、やがて誰かが来る。
「さて……」
黄金の瞳が、通路の奥へ向けられる。
「どこから来るかな」
落ち着き払った声だけが、静かな空間に小さく落ちた。
(確か、葉隠――だったか)
爆弾に背を預けたまま、玄麗は視線だけを静かに巡らせる。
吹き抜けを渡る人工照明。無人の店舗。静まり返った通路。
一見すれば何も動いていない。
だが、相手が相手だ。
(あいつは必ず直接来る)
葉隠透。
透明化という厄介な個性を持つが、結局のところ爆弾を確保するにも、こちらを拘束するにも、最後は接触距離まで踏み込む必要がある。
遠距離で完結する手札はない。
ならば、来る。
必ず、この三メートル圏内へ足を踏み入れる。
(捕縛にしろ、爆弾確保にしろ、近づくしかないんだからね)
玄麗は表情を変えない。
ただ、時折わずかに首を動かし、周囲を確認する。
静かに、気配を探る。
そして――
左後方。
およそ百度。
灰色の床に、ほんのわずか。
足の爪先三本分ほどの浅い跡がついた。
撒かれたセメントの薄膜が、確かに乱れた。
(……いた)
視線は向けない。
悟らせれば意味がない。
むしろ、ここで必要なのは――
一瞬の迷い。
一瞬の硬直。
それが欲しかった。
玄麗は唐突に声を張り上げた。
「見つけた!!」
同時に、爆弾から背を離し、両腕を大きく広げて足跡の方向へ一気に踏み込む。
まるで確信を持って掴みにいくような勢いで。
広げた腕が空気を切る。
足元のセメントがわずかに舞い上がる。
目の前には何も見えない。
だが、その「何もない空間」に向かって、玄麗は迷いなく体ごと突っ込んだ。
次の瞬間、何もないはずの空間から、少女の悲鳴じみた声が弾けた。
「なんでわかったの!?」
同時に、床へ新たな足跡が刻まれる。
一歩、二歩。
驚いて後ずさったのだろう。
灰色の薄膜の上に、今度ははっきりと足跡のの輪郭が浮かんだ。
「やっぱりそこか」
玄麗の口元がわずかに緩む。
広げた腕をそのまま閉じるようにして、一歩踏み込む。
姿は見えない。
だが、足跡と声がある。
十分だった。
「驚くと、どうしても体は逃げる」
足元を見ながら静かに言う。
「そして逃げれば、痕跡は増える」
セメントの円の中に刻まれた複数の足跡は、もはや隠しようがない。
透明であっても、そこに「いる」と証明していた。
増えた足跡は、もはや迷う余地がなかった。
玄麗は踏み込みながら、わずかに体をひねる。
次の瞬間、何もない空間へ伸ばした腕が、確かな感触を捉えた。
「きゃっ!?」
細い腕。
逃げようとする力が咄嗟に加わるが、一瞬遅い。
そのまま体勢を崩させるように引き寄せ、足を払う。
軽い衝撃とともに床へ倒れる気配。
見えない相手でも、位置さえ掴めば変わらない。
玄麗は即座に拘束用テープを引き抜き、逃げる隙を与えず手首へ巻きつけた。
「確保」
訓練用テープが固定される。
透明な相手の姿は見えないままでも、そこに確かに葉隠透がいることだけは分かった。
「ううぅ〜……せっかく完璧だと思ったのに……」
悔しそうな声が床のあたりから漏れる。
玄麗は軽く息を吐き、足元の見えない相手へ視線を落とした。
「全部脱いできたのかい?」
ほんの少しだけ、口元に苦笑が浮かぶ。
「やるとは思ってたけど、ほんとにやるとはね。すごいじゃないか」
その声音には皮肉よりも、純粋な感心が混じっていた。
「そこまで徹底するなら、足元をしっかりと見るんだったね」
灰色のセメントの上には、くっきりと残された足跡。
透明であっても、それだけは隠せなかった。
玄麗の視線の先。
灰色の床に残る、くっきりとした足跡。
葉隠は拘束されたまま一瞬黙り込み、それから悔しそうな声を漏らした。
「……え?」
見えない顔が、床の方へ向けられる気配。
「うそ、これ……セメント?」
「そう」
玄麗は足元の薄い灰色の輪を軽くつま先でなぞった。
「透明でも、誤魔化せないものもある」
「そんなのアリ!?」
「なんでなしなんだい」
淡々と返す。
「真正面から来ると思っていたよ。君の個性なら、それが一番確実だから」
葉隠はしばらく沈黙したあと、
「うわ〜……やられたぁ……」
と、力なく肩を落とした気配を見せた。
「全部脱いでくれば完璧だと思ったのに……」
「その発想自体は悪くないよ」
玄麗は少しだけ口元を緩めた。
「むしろ徹底していて良い。普通はそこまでやらない」
「褒められてるのか微妙なんだけど!」
「褒めてるよ。少なくとも、手を抜いてはいない」
そのとき、訓練終了を告げるアナウンスが訓練場へ響いた。
無機質な電子音が広い吹き抜けに反響する。
玄麗は拘束テープを確認しながら、小さく息を吐く。
「次は足元以外にも気を配るといい」
「……次は絶対引っかからないからね!」
悔しさを滲ませた声。
だが、その中には次への闘志もあった。
玄麗は爆弾へ背を預け直しながら、静かに目を細める。
「期待してるよ」
灰色の足跡だけが、訓練の痕跡として静かに床へ残っていた。
短編はここまでにして、まだまだ予定は未定ながら次は本編を書いていこうと思います。短い間でしたが。読んでくださりありがとう御座いました。