宮城県北部、国道108号線を秋田に向けて進んだ県境に程近い小さな町。霧深い山脈に隠され息をひそめるように存在し続けるその地は、名を弥沼町《みぬまちょう》といった。人口は約3000人。古くからこの地に根を張る住民が多く暮らす閉鎖的な土地だ。
その中心部に存在する商店街─長屋に挟まれた通りの真ん中を、夕日に照らされながら歩く学生がひとり。
前を開けた学ランの下にパーカーを着込み、安物のリュックを背負う姿は、一見ごく普通の高校生に見える。しかし同級生たちから頭ひとつ抜けた長身と、端正ながらも感情表現の乏しい顔は、彼を実年齢よりも大人びて見せていた。
その足は、L字型に並ぶふたつの8軒長屋の切れ目、商店街唯一の一軒家の前で止まった。
築120年を超える2階建ての木造家屋。黒い瓦屋根の正面には、“店商らづつ“と記された古めかしい檜の看板がかけられている。昭和の香りが漂う商店街の中で、この建物は更に数十年の時を飛び越えたような歴史を感じさせた。
“つづら商店”は創業120年を迎えた老舗─規模は小さいとはいえ、その歴史はこの町と共に脈々と続いてきた。周りの商店街も、この店を中心とするように建築されたのだ。
「ただいま」
ガラス戸を開けると、沢庵の匂いが鼻をつく。
「曾祖母《ぴー》ちゃん?ただいま」
もう一度呼びかけてようやく、食料品や生活雑貨が並ぶ棚の隙間から小柄な老婆が顔を覗かせる。
「おお、ハル坊かぁ、お帰り」
「ぴーちゃんひとり?ばあちゃん居ねの」
「ばんつぁんなら電機屋のタケと話込んでんでねのか。電池買いさ行くっつって、さっぱど帰ってこね」
少年─綴《つづら》御春《みはる》は、曾祖母のチヤに迎えられ、ガラス戸の中に足を踏み入れる。
丁度補充をしていたようで、棚の脇には在庫を詰めた籠が置かれている。
「店番代わるよわ」
「あ?おめえ、宿題ねのか」
「別に、店番しながらやるよわ」
「したっけ(そしたら)お願いな。ぴーちゃん飯作らねばなんねから」
「はーい」
チヤは居住スペースに続く段差に腰掛け突っ掛けを脱ぐと、廊下の奥に歩いていった。
店がある土間と、廊下を繋ぐ段差は20センチ以上あるが、彼女は90歳になった今でも難なくそれを乗り越える。ちなみに御春は、昨日盛大に躓いて転んだ。打った肘がまだ少し痛む。
彼は一度洗面所に行って手洗いを済ますと、制服のまま店の中に戻る。そしてカウンターの内側にある椅子に座り、世界史のノートと教科書を広げた。
「あの……」
かつ、と硬い足音が土間を打つ。
床のリュックから筆箱を取り出したところだった御春は、入り口に視線だけを向けた。
「いらっしゃいませ」
そこに立っていたのは、見慣れない若い女だった。パステルカラーのブラウスに、黒のスラックスを合わせている。
この辺りの人間ではないと思った。雰囲気が違うというべきか─身に纏う空気が洗練されていて、都会的な印象を受けた。
「つづら商店っていうのは、ここで合っていますか?」
訛りのない丁寧な口調は、やはり住人のそれではない。
「はい、まあ」
「……あなたが、ここの“若旦那”さん?」
それは、近所の老人たちが御春を指す呼称のひとつだった。綴家は4世代9人の大家族だが、御春の父と姉の婿が早くに亡くなったため、若い男は御春しかいない。「お前が店を継ぐんだろう」という期待も含めて、古くからの住人は彼を若旦那と呼ぶのだ。
「一応。あんた誰?」
「……ええと、私藤ヶ崎の妻なんです。莉緒と言います」
「藤ヶ崎先生の?」
藤ヶ崎診療所は、商店街の近くにある小さなクリニックだ。跡を継いだばかりの息子が結婚したという話は聞いていたが、妻となった女性の顔はまだ見たことがなかった。
「結婚おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます。ああ、いや、そうじゃなくて……ご相談したいことがあって来ました」
女性─莉緒は御春を観察しながら慎重に言葉を続ける。本当にこの高校生に“相談”の内容を打ち明けて良いか悩んでいるのだろう。
「初めは夫に相談したんです、そうしたらここで、夕方に店番をしている“若旦那”さんに話したほうが良いって」
「……」
御春は教科書を閉じ、代わりに鞄の中から一冊の、和綴じのノートを取り出した。
「変なことでも起きたのすか?」
「……!」
莉緒は息を呑んだ。
「説明がつかねような、おっかなくて妙なことが周りで起きた。んで先生さ相談したっけ、おれを紹介された」
「は、はい。その通りです」
「分かりました」
御春は和綴じのノートを開く。そこには何かのフォントのようにバランスよく整った文字が、均等な幅で書き連ねてある。すべて御春が記したものだ。
「……むがぁす、あったずもな」
「えっと、今何て?」
「うちの遠いご先祖さまの故郷の……おまじないみてなもんす。藤ヶ崎さん、良かったらあんたが体験したこと、おれにも聞かせてけれねすか?」
世の理では説明のつかない不可解な存在や事象、すなわち“怪異”。この町でそれに触れた者は皆口を揃えてこう言う。
『綴商店で話さねば』と。
誰も理屈は知らないし、詮索をしようと思うものもいない。しかしそれは遠い昔からの取り決めであり、習慣であった。
曰く、彼らに向けて語られ、彼らの手で綴られた“怪異”は、物語となって幕を閉じる。そう言い伝えられている。