町の入り口に張られた見事な注連縄を越え、霧をかき分けて辿り着いたのは、時が止まったかのような町だった。
日中は霧が少なく、山に囲まれた広大な田畑が一望できる。そこでは人々が農機具に乗って働き、あぜ道を子どもが走り回り、道の先には長屋の商店街が広がっている。
莉緒は覚と結婚することを決め、弥沼に移り住んだ。町では覚は「若先生」と呼ばれ、何十歳も年の離れた老人たちからも敬われる存在だった。道理で、誰に対しても人見知りしないはずである。
田舎に嫁ぐ莉緒を両親は案じたが、外部からの移住者は時折あるらしく、大阪から越してきたという人物にも出会った。曰く、弥沼の静かな空気が、穏やかな時間の流れが、喧騒に疲れた人間には温かい湯のように感じるのだという。
覚は温厚で優しい夫であるし、義祖父母や義両親もみな莉緒を歓迎している。しかし彼女は、常識の違いを感じずにはいられなかった。
ウェディングドレスが着て写真が撮りたいと言えば、店を貸し切って莉緒が気に入りそうな好きなヴィンテージもののドレスを集め、好きなものを選んでいいと返され、診療所の二階で三世帯で同居をするのは不安だと言えば、あっという間に敷地内に一軒家が建つ。ここで調子づく者もいるのだろうが、莉緒はそうではなかった。というか、義祖母あたりは、それを見極めているような様子があった。
「お式は来週でしたっけ?」
莉緒は、御春の声でふと我に返った。会計のカウンターを挟んだ向こう側で、御春はくるりと万年筆を回す。
「え?ああ、はい、そうです。6月20日……」
莉緒の緊張を和らげようとしているのか、彼は一見関係のないような質問をした。
「へえ、変な日。大安でもねえし」
「私も両親もこういう式は慣れてませんから、色々落ち着いてからって覚が気を使ってくれて。それで、丁度越してから3カ月目にしようっていう話になったんです」
「ま、春の山は寒ぃから丁度良いんでねすか。俺傘持ちだから、あったけえ方が助かる」
「そうなんですね。よろしくお願いします」
花嫁行列をするのが習わしだと聞いたときは、耳を疑ったものだ。診療所から出発し、朱色の傘を携えた傘持ちや参列者を伴って、山の上の神社に至る。
町は既に「藤ヶ崎の若先生」の結婚式という一大行事に色めき立っており、診察に来る患者が皆お祝いを渡してくるので、莉緒の緊張も増すばかりだった。この3カ月、町の人々の振る舞いや文化、考え方に時に驚き、感心し、時に煩わしさを覚え、そして少しずつ折り合いをつけながら過ごす日々だ。
「んで、何があったのすか、今回は」
古びた万年筆が再びくるりと回る。
あの「現象」が起きて、夫と義母に相談したとき、ふたりは顔を見合わせたあと、「綴の若旦那さ話すべし」と言った。
莉緒はこの土地のことが分からない。看護師、そして町医者の嫁という立場もあって人々は彼女を好意的に受け入れているが、彼らの訛りも、時折垣間見る奇妙な風習じみた仕草も、彼女にとっては酷く異質なものに映るのだ。
「……あの、信じてもらえるかは分からないんですが」
以前の覚のような前置きに返事はなかった。彼はじっと万年筆を構え、言葉が始まるのを待っている。恐らく、彼にとってあの「現象」は信じる信じないといった次元の外にあるものなのだろう。
莉緒は財布を取り出し、そこから数枚の硬貨をカウンターに並べた。それはいずれも、茶色い焦げのような汚れがこびりついている。
すると御春は、僅かに身を乗り出してじっとそれを眺めたあと、「最近じゃ珍しいもんだな」と呟いた。それは初めてこれが手元にやってきたとき、覚が呟いていたのと同じ台詞だった。
「これはどこで?」
促され、莉緒は事の経緯を説明し始めた。
それは数週間前のこと─診察時間が終了し、片付けを済ませた診療所に赤い西日が差し込む。既に通いの事務員も、義両親も帰宅した待合室は、日中の喧騒が嘘のような沈黙に包まれている。
「雨降っから、わらわら帰ってしまわねばね」
「わらわら?」
「急いでってごと」
冷たく湿気た風と土の匂いが、開け放した玄関から吹き込んでくる。ここの雨の気配は、アスファルトの街よりも身近で明瞭だ。
「何か可愛いね。わらわらって」
「んだがや(そうかな)? 」
何気ない、ありふれた会話。そのとき、ソファの足元に黒く丸いものが落ちていることに気が付いた。後退りかけたが、小さな虫を怖がる「都会のお嬢さん」と思われたくないという意地で、ずっとそれを注視する。
すぐにその正体は分かった。真っ黒に汚れた10円玉だ。手にとってみれば、元の色が分からないほどに焼け焦げているのことが分かる。微かに判読できる製造年は「昭和51年」。
「何したのわ?」
「お金が落ちてたの、ほら」
掌に乗せたそれを覗き込んだ覚は、希少な虫でも見るようにそれをじっと観察した。
「……あれ、珍しいね」
「そう?」
「大事なもんだから、こさ入れとこっか」
覚はそれをそっと手に取ると、ペーパータオルに優しく包んで落とし物入れに収めた。彼は物欲も家が裕福という自覚も薄いため、かえって「お金は大切」という素朴な教えを真面目に守っているところがあった。
何気ない日常の1ページ。その出来事は過ぎ行く日々の中に埋もれていくはずだった。しかし、そうはならなかった。
「それから、お釣りや、落とし物、あと気が付いたら鞄に入っていたり、同じように焦げたお金がふとしたときに手元にやってくるんです」
莉緒は青ざめた顔で声を震わせた。
ぽとりと落ちた墨のように、静かに、じわりと広がっていく異変、恐怖、それが決定的になったのは数日前だ。
ある日、往診を終えた覚と莉緒は、敷地内にある夫婦の住まいに向けて歩いていた。
「明日は休みだし、料理の練習しようかな」
「別に莉緒ちゃんがすっことないのに。言ったべ?何も苦労させねって。おばあちゃんもお母ちゃんも、あかぎれひとつこさえたことねんだよ」
「まあ、私たちが働いてる時間に色々してくれるのはありがたいけど……でも少しくらい自分たちで出来るようになりたいじゃない?」
「ああ、趣味ってこと?したっけさ、使うもん言ってよ。運んでもらうから」
覚の言う「運んでもらう」というのは、馴染みの商店に連絡して使う食材や調味料を配達してもらうという意味だ。彼は学生時代すら家族が手配した家事代行サービスを利用しており、交際中に莉緒と交際するまでコンビニすら行ったことのない坊っちゃん育ち─本人は少しの親切のつもりで、漫画に出てくる御曹司のような金と人を動かそうとするのにも、もう慣れた。
「行ったでしょ、自分で買いに行くところから楽しみたいの。覚だって、本屋に行ったりするじゃない。それと同じ」
「そっかあ。あ、僕も手伝って良い?」
「じゃあ、明日休みだし一緒に行こうか」
和やかな夕暮れ。長く伸びる己の影を辿っていると、覚の祖父母や両親が住む母屋の方から誰かが歩いてくるのが見えた。義母だ。
「覚、莉緒ちゃん、おつかれ」
莉緒と同じく他所の街から嫁いできた看護師である義母は、彼女にとっての強い味方だった。労いに笑顔で答えたところで、覚がその手に握られた円柱状の物体を指差す。
「お母ちゃん、なにそれ」
「蔵掃除しったら出てきたのよ。これあんたの貯金箱だべ?」
差し出されたのは、丸型ポストを模した紙粘土製の貯金箱だった。
「わ〜、懐かし。いつの……うわ重っ」
受け取った覚は、一瞬それを取り落としかける。硬貨がみっちりと詰まっているのが投入口からちらりと見えた。
「中身ぎっちりだもの。あんたさぁ、昔からお金とかその辺さ投げとくなって言ってるべや。ほんといつまでたっても……」
「はいはい」
「何や親に向かってその態度」
「……以後気をつけまーす」
実家の弟が母に叱られるときとそっくり同じ顔をした覚は、貯金箱の中を覗いた途端に目を輝かせる。
「莉緒ちゃん、いきなり(とても)入ってるよ」
「覚も貯金とかするんだね」
「小銭磨いて集めんの好きだったんだよ」
覚が貯金箱を手の中で転がしていると、その拍子に投入口から1枚の硬貨が零れ落ちる。磨かれた500円玉だ。彼が行儀の悪さを再び叱られている間に、莉緒はそれを拾い上げ、手渡そうとした。その刹那─
焦げた匂いが鼻を突く。はっと掌に目を落とすと、そこには焼けた10円玉があった。
「え」
ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん。
次から次へと、手の隙間から小銭が溢れ、落ち、地面や莉緒の靴を打って跳ねる。黒く汚れたそれらが降り注ぐたび、金属が焼ける異臭は耐え難いものとなっていった。
「ひっ……」
ちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりんちゃりん─
「いやぁ!」
掌の小銭を放り出し、莉緒は後退る。
あまりに奇妙な光景に覚も驚愕すると思いきや、彼はぽかんとした表情で首を傾げるだけだった。
「虫でも居だった?」
彼が拾い上げたのは、汚れ一つない500円玉だった。
そして耐えきれず全てを打ち明け、ここを紹介されたのが昨日の話だ。