彼は誰時、語られるもの   作:伊勢谷照

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ただそこにあるもの 終

 

「これは、何なんですか?夫たちは何も答えてくれなくて……」

「ま、先に色々話されっと面倒なこともあんで、口止めしてるんです」

 

 御春はカウンターの小銭に手を伸ばす。製造年月日はいずれも、昭和40年代後半〜50年代前半の、古い硬貨ばかりだ。

 

「これは、ご遺体と一緒に焼かれたもんです」

 

 思わぬ言葉に、ひゅっと莉緒は息を呑んだ。

 

「人や家によって、“渡し賃“とか“小遣い“とか言われてるもんすな。人が亡くなったとき、これをご遺体と一緒に御棺さ収めっことで、金をあの世に持ってけるようにする。札や1円玉は火に弱えから、10円玉とか100円玉が多いすね」

 

 三途の川の渡し賃、あるいは死後の路銀、あるいは細やかな小遣い。様々な願いを込めて、棺の中に硬貨を収める古い風習だ。

 主に山間の田舎で細々と行われてきたが、本来貨幣の損傷は刑法に抵触する。黙認と共に続いた風習は時代を経るごとに消えていった。覚が焼けた小銭を見て「珍しい」と言ったのも、そういった事情を知るが故だろう。

 

「……じゃあ、古いお金が焼けてたりするのはこの辺では普通なんですか?」

「いや、家の外には出ねえ金の筈っす」

 

 渡し賃の行く末は家によって異なる。

 骨壷に収めたり、財布に入れると幸運のお守りになると言い伝わっていたり、箱に入れて家に保管したり……綴家では昭和までに焼かれた渡し賃が、故人の名前入りの箱に収められ保管されている。

 

「んでも例えば、財布に入れて間違って使っちまったり……何も知らね家族が実家の形見分けしてっときに見つけて持って帰ったり……そもそも何も気にしねで普通に使うやつが居たり、色んな理由で、外さ出回ることもある」

 

 莉緒の話によれば、硬貨の製造年は全て昭和50年代以前のもの─つまりそれは、この渡し賃を受け取った故人が、遠い昔に亡くなったことを表している。

 

「多分、あんたが見つけた金は全部、おんなじ人の渡し賃だと思います」

 

 長年保管されていたはずのそれが、ほんの最近、何かのきっかけで世に流れていった。それ自体は決して有り得ない話ではない。そこまで説明すると、かえって莉緒の困惑は強くなった。自分の前にそれが現れた理由が分からなかったからだ。

 

「若奥さん、風邪は……なして引くと思いますか?」

「え?……ウイルスや細菌に感染して、上気道が急性の炎症を起こすから、です」

 

 不意を突かれた質問だったが、染み付いた知識は彼女の口を滑らかに動かした。

 

「したっけ、そのウイルスとか細菌ってのはどっから来んのすか?」

「空気中に漂ってたり、人から感染することもあります」

「……それと同じ」 

 

 御春はパイプ椅子の背もたれによりかかり、10円玉をそっと撫でた。

 

「この町では、理屈では説明が出来ね現象─“怪異”ってのがよく起こります。んでもそれはそういうもんで、誰も理由を探そうとはしね。風邪引いたとき、どっからもらってきたかなんていちいち深く考えねように」

 

 この小銭は、誰かと共に焼かれその者の渡し賃となった。そしてつい最近、何かの理由で町の中に出回り、怪異となって莉緒の周囲に現れ始めた。そこに明確な理屈はない。筋の通った動機も、胸を打つ物語も、何もない。

 

 

「あんた、若先生と過ごして、そういうモン見たことねすか。あの人、けっこう寄せる人だけど」

「……一度だけ」

 

 莉緒は、菊池という男性患者の周囲に起きた奇妙な事象について打ち明けた。

 捜索ポスターの形を成した「心残り」と覚が語った、あの青焼き写真。笑う女性の笑顔は、数週間後図書室で閲覧した数十年前の新聞記事に載っていたものと、寸分違わぬものだった。

 

「あれは、菊池るい子さんの幽霊なんですか?この小銭も、一緒に焼かれたご遺体の……」

「さあ」

 

 御春は短く答えた。

 

「分かんねし、分かる必要もねえ。死んだモンは彼岸《あっち》さ渡って、それきり。もうこの世のもんではねえ。んでも、この世に証が残る。生きてた頃の後悔、喜び、怒り、幸せ……そういうもんがこびりついて、形を変えて、でも残り続ける。その正体を知ることはできね。俺らが此岸《こっち》のもんである限り」

 

 菊池老人が、認知症によって己の名前すら言えない容体となってもなお、ポスターは現れていた。つまり、菊池が自由意志によってあれを生み出したわけではないのだろう。

 

「下手に怯えたり、憎んだり、同情するもんではねえ。これは本来されるべき供養をされねで、本来流れねはずのところに行き着いて、怪異さなった。あんたの周りさ現れたのは偶然─まあ、拾ってもらえたから付き纏ってたくれえのことだと思います」

 

 ただ、そこに生まれ、存在し、流れ、根差し、いつかは消え行く。夏の雨のように、赤く燃える夕日のように、壁を這う家守のように、山の中でひっそりと息をするこの町のように。

 

「……それじゃあ、どうしようもないんですか?」

「いいや」

 

 御春は再びペンを取った。使い慣れた筆ペンによって綴られた文字は、1ページをようやく埋め尽くそうとしている。 

 

「怪異さ出会って困った人は、おれらんとこさ来ます。怪異を、閉じるために」

「……閉じる?」

「幕を閉じる、ってことです。話には、終わりがあるもんですから。とりあえず藤ヶ崎さん、あんたこれをどうしたいとか、何かありますか?」

 

 10円玉を指し示し放たれた抽象的な問いに、莉緒は目を伏せて考え込む。そう言われても、というのが正直な感想だ。彼女は未だ、怪異の存在すら満足に飲み込めていない。

しかしこの小銭にまつわる物語を聞いた瞬間、彼女の胸にはひとつの後悔が生まれていた。

 

「自治会館の募金箱って、まだ回収されてませんか?」

「……上半期終わるまではそのままだと思いますけど?」 

 

 突拍子もない問いに、御春は初めて表情を変えた。

 

「私、小銭をいくつかそこに入れてしまったんです。手元に置いておきたくなくて……でも、出来ることなら、集められるだけ集めて……供養して差し上げたいです。亡くなった方のための、大切なお金なんですよね?」

 

 御春の目が丸く開かれる。

 彼は、怪異に意味はないと言った。しかし莉緒は、そうは思えなかった。死者の棺に収められ、大切に保管されていたはずの“渡し賃”。それが見捨てられるように世に流れたことこそ、この怪異の正体であり、意味であり、理由なのだろう。

 

「それで、大丈夫でしょうか?」

「……“今回”は問題ねっす。あんま厄介なもんでもねえから」

 

 御春は再びペンをとり、滑らかに何かを書きつけた。

 

「このお金、誰のものかは分からないんですか?」

「詮索しね方が身のためっすよ。今回のコレは、厄介なもんではね。でも、下手に同情したり、怯えすぎたりすっと厄介な怪異もあるんで」

 

 雨が、時には洗濯物を湿らせ、時には家を押し流すように、怪異が人に与える影響もまた、決して一定ではない。彼はそう語った。

 

「この金はもう、誰のもんでも無え。此岸《こっち》の誰のものでも無くなったから、これは怪異になった」

 

 話しながら、御春の手は止まらない。

 

「本当のところは誰も知らね、知るべきでもねえ……だからこそ、新たな“物語”を与えてやれば、これは“そういう話”として幕を閉じるんす」

 

 さらさらと、さらさらと、流れるように文が続いていく。

 己を忘れ、人に忘れ去られ、ただ雨雲のように流れるだけになったもの。それが怪異と言うならば、とても悲しい存在だと莉緒は思った。文字を綴られるごとに、彼女の中から恐ろしさは消えていった。

 

「……募金箱は、おれから自治会長さ事情話しとくんで、明日の朝にでも小銭取りさ行ってけさい。神社の方は、藤ヶ崎の大《おお》先生が氏子総代してっから、そっちから話通したほうが早えと思います」

 

 

 結婚式で赴いた、古びた神社を思い出す。木漏れ日はきらきらと輝いて温かいのに、その隙間に落ちる影は不自然に暗い、奇妙な場所だった。

 

「そこさ小銭を渡して、お祓いしてもらって、この話は閉じる。こういう町だから、そのうちまた変なことが起きっと思うけど」

「そうしたら、ここに来れば良いんですか?」

「んだ(そう)」

 

 買い物をしたあとのような、簡単な返事だった。恐らく日々の買い物と同じように、彼女は何度もここを訪れるのだろう。

 

「ハル坊〜、飯だど〜店閉めら〜い!」

 

 廊下の奥から、チヤの声が響いてくる。いつの間にか、太陽は殆ど山の奥に沈みかけていた。

 

「お邪魔してすみません、このお礼はどうすれば?」

「初回無料。まあ次があんのか分からねけど」

「……ありますよ」

 

 湿った土の匂いが一層店を満たす。間もなく雨が降る前兆だ。それが分かる程度には、莉緒はこの町に溶け込みつつあった。そしてこの奇妙な現象もいつしか、日常に溶けていくのだろう。莉緒が町にいる限り。

 

「結婚したとき、ここにもご挨拶に来ましたから。“末永くよろしくお願いします”って」

 

 

【女は、世に流れた渡し賃を哀れに思い、翌日になって近くの神社へとそれらを預けた。

以降、女を悩ませていた怪異はパタリとその気配を消したという】

 

 御春はそっとノートを閉じた。

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