プロローグ:置き去りの風
世界が、黒く塗り潰されたようだった。
鼓膜を劈(つんざ)くような轟音。肌を焦がす熱波。
そして、空を覆い尽くす絶望の翼。
天狼島を襲った黒龍・アクノロギアの咆哮(ブレス)は、私たち「妖精の尻尾(フェアリーテイル)」の絆さえも無慈悲に飲み込もうとしていた。
「みんな! 手を離すな!」
「絶対に諦めるんじゃねえぞ!」
ナツさんの叫び、マスターの祈り。
私たちは円になり、互いの手を強く握りしめた。魔力を一つに。想いを一つに。
私の右手には、シャルルの小さな手が。左手には、ガジルさんのゴツゴツした手が握られていた。
大丈夫。みんなと一緒なら。怖くない。
私たちは仲間(家族)なんだから──。
けれど。
運命は、残酷なほどあっけなく分岐した。
カッッッ!!!!
視界が真っ白に染まった瞬間、想定を遥かに超えた衝撃波が島を襲った。
防御魔法の結界が展開されるコンマ数秒前。あまりにも巨大な爆風が、円の端にいた私を木の葉のように吹き飛ばしたのだ。
「──え?」
ふわり、と身体が宙に浮く。
繋いでいたはずの手が、すり抜ける。
指先から、シャルルの温もりが消えていく。
「ウェンディ──ッ!!」
シャルルの悲鳴が聞こえた気がした。
伸ばした私の手は空を切り、次の瞬間には、圧倒的な光の奔流が島全体を飲み込んでいた。
「いや……待って……私も、みんなと……!」
声は音にならなかった。
私は強烈な衝撃に弾き飛ばされ、瓦礫と共に暗い海へと叩き落とされた。
冷たい水の中で、最後に見たのは──光の中に消えていく、大好きな家族たちの影と、跡形もなく消滅した天狼島の残像だけだった。
ザザァ……ザザァ……。
波の音が、耳元で繰り返していた。
頬に当たる砂の感触。身体中が軋むように痛い。
重たい瞼を開けると、そこはどこかの海岸だった。天狼島からどれだけ流されたのだろうか。
「……っ、うぅ」
海水を吐き出しながら、上体を起こす。
魔力は空っぽだ。足元もふらつく。それでも私は、這うようにして波打ち際へ向かった。
「シャルル……? シャルル、どこ?」
返事はない。
ただ、白い波が寄せては返るだけ。
「ナツさん? エルザさん……? 誰か、いませんか……?」
叫んでも、叫んでも、風の音にかき消される。
水平線の向こうを見る。
あるはずのものが、ない。
そこにはただ、どこまでも続く青い海が広がっているだけだった。
島が、ない。
気配も、魔力も、匂いさえも。
何もかもが、消えていた。
「嘘……ですよね」
膝から力が抜け、崩れ落ちる。
たった一人。
世界にたった一人、私だけが弾き出された。
守られるだけの未熟な子供だったから、運命さえも私を「数」に入れなかったのだろうか。
「うあああぁぁぁぁぁぁっ!!」
誰もいない海岸で、私は喉が裂けるほど泣き叫んだ。
涙が涸れるまで泣いて、それでも現実は何一つ変わらなかった。
それから、どれだけの時間が経っただろう。
私は歩いていた。
ボロボロの服を引きずり、裸足の足裏から血を流しながら、マグノリアの街を目指した。
希望は捨てていなかった。
もしかしたら、みんなは魔法でどこかへ転移したのかもしれない。
ギルドへ戻れば、「遅かったなウェンディ!」と笑って迎えてくれるかもしれない。
その一心だけが、死にかけた私の身体を動かしていた。
数日後。ようやく辿り着いたマグノリアは、雨が降っていた。
見慣れた街並み。けれど、空気は沈んでいる。
私はふらつく足取りで、愛するギルド「妖精の尻尾(フェアリーテイル)」の前まで来た。
あの中へ入れば。
シャルルがいる。みんながいる。
震える手を伸ばし、重厚な木の扉に触れようとした、その時だった。
中から、悲痛な声が漏れ聞こえてきた。
「……もう、認めちまおうぜ」
それは、マカオさんの声だった。
「天狼島が消滅して、もう一週間だ。評議院も、近海の調査団も、生存反応なしって結論づけた」
「そんな! でもよぉ、あのナツだぜ!? エルザだっているんだ!」
「わかってる! わかってるよ……! だがな……」
マカオさんの声が、涙で詰まる。
「あいつらはもう、帰ってこねえ。……全滅だ」
全滅。
その二文字が、私の心臓を氷の杭で貫いた。
帰ってこない?
みんなが? ナツさんが? シャルルが?
死んだ?
(──あぁ)
その瞬間、私の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。
張り詰めていた希望の糸ではない。
私を「ウェンディ・マーベル」という泣き虫な少女に繋ぎ止めていた、感情の糸だ。
伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろす。
扉を開ければ、そこには絶望しかない。
彼らはもう「全滅した」と決めてしまった。私がこのまま姿を現せば、彼らは私を抱きしめ、慰め、そして「可哀想な生き残り」として扱うだろう。
そんなの、いらない。
同情なんていらない。
私が欲しかったのは、守ってもらう場所じゃない。
「……弱いから」
雨音に紛れて、乾いた言葉が口をついて出た。
「私が弱かったから、吹き飛ばされた。みんなと一緒にいられなかった」
もし私に、エルザさんのような強さがあれば。
もし私に、ギルダーツさんのような魔力があれば。
あの爆風の中で、誰かの手を掴み返せたかもしれない。結界の中に留まれたかもしれない。
今のままギルドに戻れば、私は一生「守られた子供」のままだ。
それでは駄目だ。
アクノロギア。あの黒い竜。
私の全てを奪った、理不尽な暴力の化身。
許さない。許さない許さない許さない。
殺してやる。
雨に濡れた前髪の隙間から、私は閉ざされたギルドの扉を睨みつけた。
熱かったはずの涙は、もう冷え切っている。
「さようなら、妖精の尻尾(フェアリーテイル)」
私は背を向けた。
ギルドの紋章が刻まれた右肩を、強く握りしめる。
次にこの扉を開ける時は、私が誰よりも強くなった時だ。
あの竜を殺し、奪われた時を取り戻す力を手に入れた時だ。
「私はもう、泣かない」
少女は雨の彼方へと歩き出す。
その瞳には、もうかつての臆病な色はなく、ただ昏(くら)い復讐の炎だけが揺らめいていた。
これが、私と世界の「空白の七年」の始まりだった。
次回、「第1話:緋色の師弟」