X791年、某月某日。
フィオーレ王国中を震撼させる大事件が発生した。
闇ギルドの最大手、バラム同盟の一角「冥府の門(タルタロス)」による、魔法評議院の襲撃。
評議員全員が殺害され、王国は未曾有の混乱に陥った。
その目的は、評議院が保有する大陸全土の魔力を消滅させる兵器「フェイス」の封印を解き、起動させること。
三千基ものフェイスが同時起動すれば、世界から魔法が消える。それは魔導士の時代の終わりを意味していた。
だが、この世界の危機を、遠く離れた西の大陸から冷ややかに見つめる視線があった。
アルバレス帝国、ヴィスタリオンの宮殿。
水晶に映し出されたフィオーレの惨状を見ながら、アイリーン・ベルセリオンは優雅にワイングラスを傾けた。
「あらあら、随分と派手にやっているわね。ゼレフ陛下のおもちゃ箱をひっくり返すなんて、悪い子たちね」
他人事のように呟く魔女の背後には、一人の少女が彫像のように佇んでいた。
ウェンディ・マーベル。
かつての面影は、もはやほとんど残っていない。
ボロボロのローブの下から覗く右半身は、首筋から指先まで、禍々しいドス黒い竜の鱗に完全に覆われていた。
右目の白目は鮮血のように赤く、瞳孔は爬虫類のように縦に裂けている。
左目は虚ろで、光を反射しない。感情の欠片も見当たらない、「兵器」の瞳だった。
「……ウェンディ」
「はい、マザー」
返答する声は、金属が擦れるような不協和音(ノイズ)を含んでいた。声帯まで竜化の影響が出始めているのだ。
「フィオーレの大気が騒がしいわ。『フェイス』とかいうカビ臭い遺物が起動しようとしている」
アイリーンは退屈そうにあくびをした。
「世界の魔力が消えようが知ったことではないけれど、陛下のご計画の邪魔になるのは面倒ね。……行って、『掃除』してきなさい」
それは、飼い犬にボールを取ってこいと命じるような気軽さだった。
だが、ウェンディにとっては絶対の命令コードだ。
「了解(アファーマティブ)。……標的は?」
「フェイス。それと、その周りに群がる羽虫たちよ。好きにしていいわ」
「……殲滅します」
ウェンディは一礼し、バルコニーから飛び立った。
風魔法で飛翔するのではない。
背中から生えた、未発達な、しかし確かな「竜の翼」を羽ばたかせて。
フィオーレ王国某所。
巨大なキノコが群生する湿った洞窟の奥深くに、その「フェイス」は隠されていた。
巨大な石像のような不気味な兵器。
その前に、一人の異形の悪魔が仁王立ちしていた。
「冥府の門(タルタロス)」九鬼門(きゅうきもん)が一角、童子切のエゼル。
四本の腕に剣を持ち、全身が刃物のような凶悪な風貌。
「ケヒャヒャヒャ! あと少しで起動だぜェ! 人間どもが魔法を失って絶望するツラが楽しみだなぁ!」
エゼルは下卑た笑い声をあげる。
彼らは知らなかった。
この場所に、人間でも、悪魔でもない、最悪の「第三勢力」が向かっていることを。
ズゥゥゥゥン……。
突如、洞窟全体が激しく揺れた。天井から岩盤が崩落し、巨大な穴が開く。
差し込んだ月光の中を、一つの影が垂直に落下してきた。
ドォォォォォンッ!!!!
着地の衝撃で地面がクレーター状に陥没し、爆風がエゼルを襲う。
「ぬぉっ!? なんだァ、何が落ちてきやがった!?」
エゼルが剣を構え、砂煙の中を睨みつける。
煙が晴れると、そこに立っていたのは、緋色のボロ布を纏った小柄な人影だった。
「……あァん? なんだそのツラは。人間……じゃねえな。半端な悪魔か?」
エゼルがウェンディの異様な姿――半身を覆う竜鱗と翼――を見て鼻で笑う。
「ケヒャッ! まあいい、テメェもフェイスを壊しに来たクチか? 残念だが、ここを通すわけには……」
「……認識コード照合。対象、敵性悪魔」
ウェンディはエゼルの言葉を無視し、虚空を見つめながら無機質に呟いた。
その赤い右目が、ギョロリとエゼルを捉える。
「排除(デリート)を開始します」
ヒュンッ。
風切り音すら置き去りにして、ウェンディの姿が消えた。
「あ?」
エゼルが反応する間もなかった。
次の瞬間、彼の視界が横にスライドした。
ドォン!!
壁に叩きつけられて初めて、自分が蹴り飛ばされたのだと気づく。
「ぐべぇっ!? な、なんだテメェ、えらく速ェ……」
エゼルが起き上がろうとしたが、体が動かない。
見えない鎖で縛り付けられたように、地面に縫い止められている。
「『空域付加(エンチャント・スカイ)・重力操作』」
ウェンディが冷徹に見下ろしている。
「重力30倍。……潰れなさい」
メキメキメキッ!
エゼルの全身の骨が悲鳴を上げる。岩盤が砕け、体が埋まっていく。
「ぎゃあああああっ! くそォッ、重ェ! なんだこの魔法はァッ!」
エゼルは必死に呪力(カース)を解放し、四本の腕で剣を振り回して抵抗しようとする。
「なめンじゃねェぞ! 童子切の剣技、喰らえェェェッ!」
放たれた斬撃の嵐がウェンディを襲う。
だが、ウェンディは避けようともしなかった。
キンッ、キンッ、ガギィン!
全ての斬撃が、彼女の鱗に当たって弾かれ、火花を散らすだけ。
「……硬度が足りません」
ウェンディは自身の鱗に触れ、傷一つついていないことを確認する。
「師匠の『物理耐性付加(エンチャント・アーマー)』と竜鱗の複合装甲です。貴方の刃では、一生かかっても貫通不可能です」
「ば、バカな……! 悪魔(オレ)の攻撃が通じねェだとォ!?」
エゼルが戦慄する。
目の前の存在は、魔法使いなどではない。ただの暴力の塊だ。
「終わりです」
ウェンディが右手をかざす。
洞窟内の空気が全て吸い寄せられ、真空状態が生まれる。
収束していくのは、天竜の魔力と、アイリーンから分け与えられた賢竜の魔力が混ざり合った、どす黒い嵐。
「――『滅竜奥義・改』」
エゼルが本能的な恐怖に絶叫する。
「ひ、ひぃぃっ! やめろォォォォッ!」
「『照破・黒天穿(しょうは・こくてんせん)』」
ゴォォォォォォォォォォッ!!!!!
放たれたのは、風のブレスではなかった。
圧縮された重力と暴風がドリルのように渦を巻き、全てを穿つ黒い光線。
エゼルの体は一瞬で原子レベルまで分解され、跡形もなく消滅した。
光線はそのまま背後のフェイスをも貫き、洞窟を貫通して遥か彼方の山脈をも消し飛ばした。
轟音が収まり、静寂が戻る。
フェイスは粉々になり、任務は完了した。
「……第一目標、クリア。次の座標へ移動します」
ウェンディは塵となったエゼルに一瞥もくれず、翼を広げて再び夜空へと飛び立った。
その背中には、かつて「妖精の尻尾」で愛された少女の面影は、もうどこにもなかった。
次回、「第15話:堕ちた妖精、緋色の咆哮」。