冥府の門の上空は、慈悲なき殺戮の場と化していた。
炎竜王イグニールと、黒龍アクノロギア。
二頭の竜王が激突する中、緋色の小型竜――暴走したウェンディは、狂ったようにイグニールに牙を剥いていた。
「ガァァァァァァッ!!」
ウェンディ竜は、敵味方の区別がつかない。
アイリーンによって脳髄に焼き付けられた『竜王ヲ殺セ』という命令が、彼女を衝き動かす。
彼女はアクノロギアではなく、手負いのイグニールの喉元を執拗に狙っていた。
『やめろ、小娘! 目を覚ませ!』
イグニールが叫ぶ。
彼はウェンディを傷つけないよう、爪を立てずにあしらっていた。
だが、その「優しさ」が致命的な隙を生んだ。
『――甘いな、炎竜王』
アクノロギアが嘲笑う。
黒き翼が風を切り、イグニールの背後を取った。
ウェンディ竜の攻撃を防ぐために体勢を崩した、その一瞬。
ズプッ。
鈍い音が響いた。
アクノロギアの鋭利な爪が、イグニールの左胸を背後から貫通していた。
「あ……」
地上で見上げていたナツの時が止まる。
「イグニール……?」
『グォォッ……ガハッ!!』
イグニールが大量の血を吐く。
その血が、目の前にいたウェンディ竜の顔にかかった。
熱い、竜の血。
その鉄の味が、ウェンディの暴走した意識に冷水を浴びせた。
(あ……え……?)
ウェンディ竜の動きが止まる。
目の前には、胸を貫かれた炎竜王。
その巨体が、力を失って落下していく。
アクノロギアは無慈悲に爪を引き抜き、さらに追撃のブレスを放った。
『消えろ』
ドォォォォォォォンッ!!!
イグニールは抵抗することなく、火の玉となって冥界島の瓦礫へと墜落した。
轟音。土煙。
そして、訪れる静寂。
ウェンディ竜は、空中で呆然とそれを見ていた。
鱗に覆われた顔が歪む。
私が……やったの?
私が邪魔をしたから……ナツさんの、お父さんが……?
「ア……アァ……アァァァァァァァッ!!!!」
絶望の叫びと共に、ウェンディの竜化が解けていく。
魔力が逆流し、精神が砕け散る。
彼女は人の姿――ボロボロの、血にまみれた少女の姿に戻り、糸が切れた人形のように落下していった。
地面に横たわるイグニールは、瀕死だった。
再生不可能な致命傷。命の灯火が、今にも消えようとしている。
「イグニール!! イグニールッ!! 待ってろ! 今、誰か呼んでくるから!!」
ナツが駆け寄り、血まみれの巨体にすがりつく。
涙が止まらない。再会したばかりなのに。
やっと会えたのに。
「……ナツ……」
イグニールが、かすれた声で息子を呼ぶ。
「強くなったな……。ENDの書は……手に入れたか……?」
「そんなもんどうでもいい! 死ぬなよ! ずっと探してたんだぞ! やっと会えたんだぞ!」
ナツの慟哭が響く。
その少し離れた場所に、ウェンディが落ちていた。
彼女は意識を取り戻していたが、目からは光が消え、ただ震えながら自分の手を見ていた。
イグニールの血で赤く染まった、自分の手を。
「……ごめ、なさ……い……」
ウェンディが、蚊の鳴くような声で呟く。
「私が……私が……」
イグニールは、重い首を動かし、ウェンディを見た。
責める色はなかった。ただ、深い悲しみだけがあった。
「……己を責めるな、風の娘よ」
「……ッ!」
「お前を、グランディーネの子を守れてよかった。お前もまた……運命に翻弄された被害者だ……。アクノロギアの……邪悪な意思に……」
イグニールの視界が霞む。
空には、興味を失ったアクノロギアが去っていく影が見える。
勝てなかった。守りきれなかった。
「ナツ……」
イグニールは最後の力を振り絞り、ナツに語りかけた。
「……生きろ、ナツ。……未来を……掴み取れ」
言葉は、そこで途切れた。
炎竜王の瞳から、光が消える。
巨大な身体が、サラサラと光の粒子となって崩れ始めた。
「イグニール? ……おい、イグニール!!」
返事はない。
温かかった炎が、冷たい風にさらわれて消えていく。
「うわああああああああああああああああッ!!!!」
ナツの絶叫が、何もない空に吸い込まれていった。
その背後で。
ウェンディは、壊れたように同じ言葉を繰り返していた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ナツさん……殺して……私を殺して……」
ナツはゆっくりと立ち上がり、ウェンディの方を向いた。
「……ッ!!」
ウェンディは身を縮こまらせた。
殺される。罵倒される。当然だ。私がナツさんの「一番大切な人」を奪ったのだから。
むしろ殺してほしい。楽にしてほしい。
しかし。
ナツの手は、優しくウェンディの頭に乗せられた。
「……お前のせいじゃねえ」
その声は、震えていたけれど、怒りの色は微塵もなかった。
「……え?」
「お前も操られてたんだ。……苦しかったろ、ウェンディ」
ナツは涙を流しながら、無理やり笑顔を作った。
「イグニールは、お前を守れて良かったって言ってた。……だから、自分を責めるな」
ナツの言葉は優しいものだった。
しかしその優しさが、ウェンディには鋭利な刃物よりも痛かった。
怒ってくれれば救われた。殴ってくれれば償えたかもしれない。
けれど、ナツは許してしまった。
父を殺した元凶である私を、「家族」として抱きしめようとした。
(……だめ)
ウェンディの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
私は、この優しさに触れてはいけない。
私の存在そのものが、ナツさんを傷つける「呪い」なんだ。
「……う、うぁぁ……」
「ウェンディ? 立てるか? ギルドへ帰ろう」
ナツが手を差し伸べる。
その手を、ウェンディは取らなかった。
「……ごめんなさい」
ヒュンッ。
突風が巻いた。
「うおっ!?」
ナツが腕で顔を覆う。
風が止んだ時、そこにウェンディの姿はなかった。
空の彼方へ、逃げるように飛び去る小さな影が見えただけだった。
「ウェンディーーッ!!!」
ナツの呼び声は、もはや彼女には届かなかった。
こうして、大魔闘演武から続いた戦いは終わった。
ナツは父を失い、そして妹分をも失った。
次回、「エピローグ:彷徨う天空、緋色の母」。