西の大陸、アラキタシア。
軍事魔法帝国アルバレスが支配するその地は、フィオーレ王国とは比べ物にならないほど魔力が濃く、そして荒々しい土地だった。
X785年。天狼島の消失から一年が経っていた。
「はぁ……はぁ……っ」
赤茶けた荒野で、一人の少女が膝をつく。
ウェンディ・マーベル。13歳になった彼女の姿は、見る影もなく汚れていた。
衣服は裂け、身体中が生傷だらけだ。
目の前には、西の大陸特有の凶暴な魔獣──巨大なワイバーンの死骸が転がっている。
「勝った……。また、生き延びた……」
ソロでの討伐。かつての彼女なら不可能な偉業だ。
だが、今のウェンディの顔に笑顔はない。
ギルドを去ってから一年。復讐心を糧に旅を続けてきたが、限界が近づいていた。
独学での修行、終わりのない戦闘、そして毎晩襲ってくる孤独。
(まだ……足りない。これじゃ、アクノロギアどころか……)
意識が霞む。
魔力欠乏(ガス欠)だ。視界が暗転し、乾いた大地に倒れ込みそうになった、その時。
カツン、カツン、カツン。
場違いなほど優雅な、杖の音が響いた。
砂塵の向こうから現れたのは、緋色の髪を持つ女性。
その身から放たれる魔力は、先ほど倒した魔獣など比較にならない。いや、この空間そのものが彼女の支配下にあるかのような、圧倒的な「圧」があった。
「ほう。このような辺境で、竜の匂いがすると思えば……」
女性は倒れ伏すウェンディを見下ろし、艶然と微笑んだ。
その瞳は、人の命など路傍の石程度にしか思っていない冷酷さと、奇妙な興味に彩られていた。
「迷子の幼竜(ドラゴン)か。……名は?」
「……ウェンディ……マーベル……」
「そうか。私はアイリーン。アイリーン・ベルセリオンだ」
アイリーン。
アルバレス帝国最強の「スプリガン12」の一角にして、緋色の絶望。
それが、運命の出会いだった。
アルバレス帝国の宮殿、その一角にある離宮。
アイリーンに拾われたウェンディは、そこで地獄を見ていた。
「ぬるい」
ドゴォォォォン!!
アイリーンの杖が一閃すると、ウェンディの身体はまりのように吹き飛び、石壁にめり込んだ。
「がはっ……!」
「防御(エンチャント)が遅い。思考と発動の間に隙間がある。そんなことでは、死ぬわよ?」
優しさなど微塵もない。
手当てなどしてくれない。
アイリーンは、ウェンディが「滅竜魔導士(ドラゴンスレイヤー)」であり、かつ「付加術士(エンチャンター)」の素質があることを見抜くと、暇つぶしのように、しかし徹底的にしごき抜いた。
「なぜ立ち上がらない? 復讐したいのでしょう?」
「は、い……!」
「なら、心を捨てなさい。恐怖も、痛みも、そして『助けてほしい』という甘えも。それらは全て、魔力循環のノイズでしかない」
アイリーンの教えは、フェアリーテイルのそれとは対極だった。
仲間を守るための魔法ではない。敵を殲滅し、理(ことわり)を書き換えるための魔法。
来る日も来る日も、死の淵を歩かされた。
骨が折れれば、自分で治癒(エンチャント)する。
心が折れそうになれば、「あの日」の絶望を思い出して継ぎ接ぎする。
(痛い。辛い。帰りたい。シャルル……)
最初の頃は、毎晩枕を濡らしていた。
けれど、涙を流した翌日は決まって魔法の精度が落ち、アイリーンに半殺しにされた。
だから、ウェンディは学習した。
──泣くのは、非効率だ。
──感情を波立たせるのは、生存に適さない。
心を凍らせろ。
痛みを感じるな。
ただの魔力炉になれ。
そうして、季節が巡るたびに、ウェンディの中から「表情」が消えていった。
時は流れ──X791年。
七年の歳月が、少女を大人の女性へと変えていた。
演習場。
ウェンディは、無数の帝国兵(模擬戦相手)のただ中に立っていた。
背は伸び、かつての可憐さはそのままに、凛とした美しさを纏っている。だが、その瞳は深海のように静まり返っていた。
「かかれぇぇぇ!」
兵士たちが一斉に襲いかかる。
ウェンディは動かない。杖も構えない。
ただ、指をパチンと鳴らしただけだ。
「──『広域重力付加』」
ズンッ!!!
一瞬で、演習場の重力が百倍に跳ね上がった。
兵士たちは悲鳴を上げる間もなく地面に平伏し、ピクリとも動けなくなる。
魔法陣すら描かない。無詠唱、無動作の高等付加術。
「合格ね」
テラスから見ていたアイリーンが、満足げに頷いた。
「まさか、ここまで育つとは。……私の娘も、お前のように素直ならよかったのだがな」
「娘さんが、いらっしゃるのですか?」
ウェンディが淡々と問う。
「昔の話だ。……失敗作だよ」
アイリーンは興味を失ったように話題を変えた。
「それより、聞いたか? 東の大陸(イシュガル)の噂を」
「……いいえ」
「フィオーレ王国の沖合に、かつて消滅した島が復活したそうだ。そして、死んだはずの妖精たちも戻ってきたと」
その瞬間。
ウェンディの鉄壁の無表情が、ほんのわずかに──髪の毛一本分ほど、揺らいだ。
心臓が早鐘を打つ。
生きていた。
ナツさんが、シャルルが、みんなが。
(会いたい……!)
七年間封じ込めてきた想いが、マグマのように噴き上がりそうになる。
だが、ウェンディは即座に自分自身に『鎮静付加』をかけ、その感情を強引に押さえつけた。
ここで取り乱せば、師匠に殺される。なにより、今の自分を否定することになる。
「……そうですか」
ウェンディは、あくまで事務的に答えた。
「ならば、私は行きます。彼らは大魔闘演武に出るはず。そこで私の『成果』を確認しなければなりません」
アイリーンは、つまらなそうに、けれどどこか楽しげに目を細めた。
「行くがいい。だが忘れるな、ウェンディ。お前はもう『天空の巫女』ではない。私の技術を受け継いだ、緋色の申し子だ」
「はい、師匠(マザー)」
ウェンディは深々と一礼した。
その背中に、かつての「妖精の尻尾」の紋章があることをアイリーンは知っている。
けれど、今のウェンディが纏っているのは、妖精の優しさではなく、竜の冷徹さだった。
ウェンディは西の大陸を後にする。
目指すはクロッカス。大魔闘演武。
愛する家族に会うために。
そして、家族を守れなかった「弱い自分」との決別を証明するために。
(待っていてください、シャルル。……私が、全てを終わらせに行きます)
風が吹く。
その風はもう、優しく頬を撫でるそよ風ではない。
全てを薙ぎ払う、鋭利な刃のような風だった。
次回、「第2話:祭りの影、凍れる観衆」。