インベルの吹雪が止み、冷たい月明かりが照らす荒野。
アイリーンの城へと続く瓦礫の山に、荒い息遣いが響いていた。
「はぁ……はぁ……ッ!」
ウェンディは岩陰に身を隠し、震える手で自身の右半身を押さえていた。
黒い竜の鱗に走った、一本の亀裂。
グレイの滅悪魔法によって刻まれたその傷は、彼女の心の脆さを象徴していた。
「ひびが……私の鱗に、傷が……」
ウェンディの瞳孔が開く。
「マザーに……マザーに叱られる……。完璧じゃなきゃ……捨てられる……!」
1年前の記憶。
アイリーンに拾われる前の、孤独で凍えるような日々。
あの日々に戻るくらいなら、死んだほうがマシだ。
「マザー! 助けて……マザー!」
彼女は虚空に向かって叫んだ。
その悲痛な叫びに応えるように、空に緋色の瞳が投影された。
『――無様ね、ウェンディ』
冷たい声。
いつもの甘やかすような響きはない。絶対零度の拒絶。
「マザー……! 違うんです、これは……」
『逃げ帰ってきたの? 傷を負ったから?』
巨大な瞳が、ウェンディをゴミのように見下ろす。
『傷ついた剣など要らない。……お前は私の最高傑作ではなかったのかしら? それとも、やはり失敗作だった?』
「ち、違いますッ!!」
ウェンディが絶叫する。
「私は失敗作じゃない! 私はマザーの娘です! 捨てないで……!」
『なら証明しなさい』
アイリーンは無慈悲に告げた。
『追手が来ているわ。……その男を殺して、その血で鱗の傷を埋めなさい。できなければ……わかっているわね?』
フッ、と幻影が消える。
残されたのは、極限まで追い詰められた少女。
「殺さなきゃ……殺さなきゃ……殺さなきゃ……」
ブツブツと呟くウェンディの背後から、足音が近づいてくる。
砂利を踏む、力強い足音。
「……見つけたぞ、ウェンディ」
ナツ・ドラグニルだ。
彼は戦意剥き出しの構えではなく、自然体でそこに立っていた。
その瞳は、暴走寸前のウェンディを真っ直ぐに見据えている。
「来るなァァァァァッ!!」
ウェンディが振り返ると同時に、彼女の身体から赤黒い魔力が爆発した。
ドラゴンフォース・暴走形態。
理性を完全に手放し、ただ破壊するだけの獣と化す。
「『天竜の……咆哮ォォォッ!!』」
ズガァァァァァァァァァッ!!!!!
至近距離からのブレス。
岩山すら消滅させる威力。
ナツは避けない。防御魔法も展開しない。
ドォォォォォンッ!!!
直撃。
爆煙が晴れると、そこにはボロボロになったナツが立っていた。
服は裂け、皮膚は焼け焦げ、血が流れている。
だが、彼は一歩も退いていなかった。
「……ハッ。相変わらず、いい風吹きやがる」
ナツは口元の血を拭い、ニカっと笑った。
「な……なんで……?」
ウェンディが後ずさる。
「なんで死なないの!? なんで避けないの!? 私が怖くないの!?」
「怖くねえよ」
ナツが一歩踏み出す。
「お前はウェンディだ。俺たちの家族だ。……家族が怖くてどうすんだよ」
「違う!! 私は竜だ!! 人殺しの化け物だ!!」
ウェンディが翼を広げ、突撃する。
「『天竜の鉤爪』!」
音速の蹴りがナツの腹にめり込む。
ゴフッ!
ナツは血を吐くが、倒れない。逆に、蹴り込んできたウェンディの足を掴んだ。
「離してッ!!」
「離さねえ!!」
ナツが叫ぶ。
「お前がどれだけ姿を変えようが、鱗が生えようが、中身はウェンディだ!」
「うるさいうるさいうるさいッ!!」
ウェンディは逆の足でナツの顔面を蹴り飛ばす。
さらに至近距離から魔法を乱射する。
風の刃がナツの体を切り刻む。
それでも、ナツは進む。
血まみれになりながら、炎の一撃を返すわけでもなく、ただ歩み寄る。
「痛えか? ウェンディ」
ナツが問う。
「痛いわけないでしょう! 私は最強の竜なんだから!」
ウェンディが叫び返す。
「嘘つけ!!」
ナツの大音声が、戦場に響き渡った。
「お前の魔法、泣いてるじゃねえか!!」
ビクッ。
ウェンディの動きが止まる。
「俺にはわかる! お前の風は、いつだって優しかった! 誰かを守るための風だった! ……今の風はなんだ! ただ冷たくて、寂しくて、泣いてるだけじゃねえか!」
ナツはウェンディの目の前まで迫った。
鱗に覆われたその顔を、至近距離で睨みつける。
「痛えのは俺じゃねえ。……お前の心だろ!!」
「あ……ぁ……」
図星だった。
アイリーンに愛されたい。捨てられたくない。
イグニールを殺した罪から逃げたい。
その一心で塗り固めた鎧の内側で、本当のウェンディはずっと泣いていたのだ。
「う……うあぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
ウェンディは錯乱し、ナツの胸に爪を立てた。
ガリッ!
肉がえぐれ、鮮血が噴き出す。
「死ね! 死んでよ! 私を否定しないで! マザー以外の言葉なんて聞きたくない!!」
ナツは眉一つ動かさず、その爪を受け入れた。
そして、血まみれの手で、ウェンディの頭をガシッと掴んだ。
「……いい頭突きを持ってたな、お前は」
ナツが頭を引く。
ウェンディの動きが止まる。
「目ェ覚ませ、ウェンディィィィィィッ!!!!」
ゴチンッ!!!!!!
ナツの渾身の頭突きが、ウェンディの額(鱗のない部分)に炸裂した。
魔法も、理屈も、全てを飛び越えた、魂の一撃。
「が、は……ッ!?」
ウェンディの視界が白く飛ぶ。
意識が揺らぐ。
暴走していた魔力が霧散していく。
よろめくウェンディを、ナツはその太い腕で抱きしめた。
燃えるように熱い、命の体温。
「……帰ろうぜ。みんな待ってる」
その言葉を聞いた瞬間、ウェンディの中で張り詰めていた何かが、プツンと切れた。
アイリーンの呪縛よりも、罪の意識よりも、もっと根源的な「温もり」が、彼女の冷え切った心に流れ込んでくる。
ウェンディの瞳から、竜の光が消え、大粒の涙が溢れ出した。
次回、「第9話:竜の涙、歪な愛」