月明かりが照らす荒野。
ナツの渾身の頭突きと抱擁を受け、ウェンディの瞳から狂乱の色が消えた。
あふれ出る大粒の涙。
それは、痛みからではない。ナツの体温が、凍りついた記憶を溶かしたからだ。
「ナツ……さん……?」
ウェンディが震える声で呟く。
その呼び名。1年前、確かに彼女が呼んでいた名前。
「おう。……やっと目ェ覚ましたか」
ナツは血まみれの顔で、ニカっと笑った。
「帰るぞ、ウェンディ。じっちゃんも、ルーシィも、みんなお前を待ってる」
ナツが手を差し伸べる。
その手は温かく、傷だらけで、どこまでも優しい「家族」の手だった。
ウェンディの手が、無意識に伸びる。
その温もりに触れたい。あの懐かしいギルドへ帰りたい。
心の一部がそう叫んでいた。
しかし。
彼女の指先がナツの手に触れる寸前、脳裏に別の記憶がフラッシュバックした。
――『お前は私の可愛い娘』
――『罪人のお前を愛するのは私だけ』
――『捨てないわ。お前が竜であり続ける限り』
アイリーンの言葉。
雪の中で差し伸べられた、緋色の手。
罪の意識で死にたかった自分に、生きる理由(罰)を与えてくれた「母」の笑顔。
「……っ!!」
バシッ!!
ウェンディは、ナツの手を強く振り払った。
「ウェンディ……?」
ナツが目を見開く。
「……帰れません」
ウェンディは後ずさり、涙を流しながら首を横に振った。
「私は帰れません……! ナツさん、貴方は優しい。……でも、その優しさが私には痛いんです!」
「なんだと?」
「私は、あなたのお父様(イグニール)を殺した罪人です! ギルドのみんなが許してくれても、私自身が許せない! ……私の居場所は、罰を与えてくれるマザーの隣だけなんです!」
それは洗脳ではなかった。
絶望の底で孤独に苛まれた少女が、唯一自分を肯定してくれた存在へ抱く、純粋で悲痛な「愛」だった。
たとえそれが利用するための愛だとしても、ウェンディにとっては縋るべき救いだったのだ。
「ウェンディ、お前……」
ナツが言葉を失う。
魔法で操られているなら殴って壊せばいい。だが、これは「心」の問題だ。
その時。
夜空が緋色に染まった。
『――ふふっ。よく言ったわ、ウェンディ』
優雅な声と共に、空間が割れる。
そこから現れたのは、巨大な杖を携えた「緋色の絶望」アイリーン・ベルセリオン。
彼女はゆっくりとウェンディの背後に降り立った。
「マザー……!」
ウェンディの表情がぱっと明るくなる。
彼女はナツに背を向け、アイリーンの元へ駆け寄った。
そして、その足元にひざまずき、衣の裾に頬を擦り付けた。
「ごめんなさい、マザー。……少しだけ、迷ってしまいました。でも、もう大丈夫です」
「ええ。見ていたわよ」
アイリーンは慈愛に満ちた(ように見える)笑みで、ウェンディの竜の鱗を撫でた。
「お前は私のもの。……誰にも渡さないわ」
その光景に、ナツの怒りが爆発した。
「てめぇ……! アイリーン!!」
ナツの全身から炎が噴き出す。
「ウェンディを返せ! 家族の弱みにつけこんで、あいつの心を縛り付けてんじゃねえぞ!」
「縛り付けている? 誤解ね」
アイリーンは冷ややかにナツを見下ろした。
「この子は自ら私を選んだのよ。……お前たちの『甘い絆』よりも、私の『支配という愛』を選んだ。それが真実よ」
「ふざけんなァァァッ!!」
ナツが地面を蹴る。
アイリーンへ向かって一直線に突っ込む。
「炎竜王の……鉄拳ンンンッ!!」
アイリーンは動かない。
杖すら構えない。
ただ、足元の少女を一瞥しただけ。
「……ウェンディ」
その名が呼ばれた瞬間。
ウェンディの瞳から迷いが消えた。
「――マザーに触れるなッ!!」
ドゴォォォォォォンッ!!!
ナツの拳を受け止めたのは、アイリーンではなかった。
ウェンディだ。
彼女はアイリーンの前に立ち塞がり、ナツの炎を「風」で相殺していた。
「なっ……ウェンディ!?」
ナツが驚愕する。
「下がりなさい、ナツさん!」
ウェンディが叫ぶ。その瞳は、正気を取り戻している。
正気だからこそ、揺るぎない意志でナツを拒絶していた。
「マザーは私の恩人です。……私を拾い、育ててくれた本当の母親なんです! たとえナツさんでも……マザーを傷つけるなら、私は貴方を殺します!」
殺気。
それは以前のような虚ろなものではない。
愛する者を守るための、悲壮な決意に満ちた殺気。
ナツは歯を食いしばった。
(くそっ……! どうすりゃいいんだ……!)
敵意を向けてくるなら戦える。
だが、ウェンディは本心からアイリーンを慕っている。
アイリーンを倒すことは、ウェンディの心を再び殺すことになるのではないか?
「……あらあら。困惑しているようね、炎竜王の息子」
アイリーンが愉悦の笑みを浮かべる。
「さあ、ウェンディ。証明なさい。……その男を殺して、私への愛を」
「はい、マザー」
ウェンディが構える。
その背後には、絶対的な魔女。
ナツの前には、かつての妹分という最強の盾。
どうするナツ。
拳では砕けない、愛という名の鎖。
「……わかったよ」
ナツは炎を鎮火させ、静かに構え直した。
「お前がそこまで言うなら、俺も本気でいく。……アイリーンごと、お前のその『歪んだ愛』もぶっ壊してやる!」
「やってみなさい!!」
再び激突する炎と風。
しかし今度は、ウェンディの心はアイリーンと共にあった。
ナツにとって、最も辛く、最も困難な戦いが幕を開ける。
次回、「第10話:炎の咆哮、母の呪縛」