緋に染まる天空   作:暁 蒼空

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第9話:竜の涙、歪な愛

月明かりが照らす荒野。

ナツの渾身の頭突きと抱擁を受け、ウェンディの瞳から狂乱の色が消えた。

あふれ出る大粒の涙。

それは、痛みからではない。ナツの体温が、凍りついた記憶を溶かしたからだ。

 

「ナツ……さん……?」

ウェンディが震える声で呟く。

その呼び名。1年前、確かに彼女が呼んでいた名前。

「おう。……やっと目ェ覚ましたか」

ナツは血まみれの顔で、ニカっと笑った。

「帰るぞ、ウェンディ。じっちゃんも、ルーシィも、みんなお前を待ってる」

 

ナツが手を差し伸べる。

その手は温かく、傷だらけで、どこまでも優しい「家族」の手だった。

 

ウェンディの手が、無意識に伸びる。

その温もりに触れたい。あの懐かしいギルドへ帰りたい。

心の一部がそう叫んでいた。

 

しかし。

彼女の指先がナツの手に触れる寸前、脳裏に別の記憶がフラッシュバックした。

 

――『お前は私の可愛い娘』

――『罪人のお前を愛するのは私だけ』

――『捨てないわ。お前が竜であり続ける限り』

 

アイリーンの言葉。

雪の中で差し伸べられた、緋色の手。

罪の意識で死にたかった自分に、生きる理由(罰)を与えてくれた「母」の笑顔。

 

「……っ!!」

 

バシッ!!

 

ウェンディは、ナツの手を強く振り払った。

「ウェンディ……?」

ナツが目を見開く。

 

「……帰れません」

ウェンディは後ずさり、涙を流しながら首を横に振った。

「私は帰れません……! ナツさん、貴方は優しい。……でも、その優しさが私には痛いんです!」

「なんだと?」

「私は、あなたのお父様(イグニール)を殺した罪人です! ギルドのみんなが許してくれても、私自身が許せない! ……私の居場所は、罰を与えてくれるマザーの隣だけなんです!」

 

それは洗脳ではなかった。

絶望の底で孤独に苛まれた少女が、唯一自分を肯定してくれた存在へ抱く、純粋で悲痛な「愛」だった。

たとえそれが利用するための愛だとしても、ウェンディにとっては縋るべき救いだったのだ。

 

「ウェンディ、お前……」

ナツが言葉を失う。

魔法で操られているなら殴って壊せばいい。だが、これは「心」の問題だ。

 

その時。

夜空が緋色に染まった。

『――ふふっ。よく言ったわ、ウェンディ』

 

優雅な声と共に、空間が割れる。

そこから現れたのは、巨大な杖を携えた「緋色の絶望」アイリーン・ベルセリオン。

彼女はゆっくりとウェンディの背後に降り立った。

「マザー……!」

ウェンディの表情がぱっと明るくなる。

彼女はナツに背を向け、アイリーンの元へ駆け寄った。

そして、その足元にひざまずき、衣の裾に頬を擦り付けた。

 

「ごめんなさい、マザー。……少しだけ、迷ってしまいました。でも、もう大丈夫です」

「ええ。見ていたわよ」

アイリーンは慈愛に満ちた(ように見える)笑みで、ウェンディの竜の鱗を撫でた。

「お前は私のもの。……誰にも渡さないわ」

 

その光景に、ナツの怒りが爆発した。

「てめぇ……! アイリーン!!」

ナツの全身から炎が噴き出す。

 

「ウェンディを返せ! 家族の弱みにつけこんで、あいつの心を縛り付けてんじゃねえぞ!」

「縛り付けている? 誤解ね」

アイリーンは冷ややかにナツを見下ろした。

「この子は自ら私を選んだのよ。……お前たちの『甘い絆』よりも、私の『支配という愛』を選んだ。それが真実よ」

「ふざけんなァァァッ!!」

ナツが地面を蹴る。

アイリーンへ向かって一直線に突っ込む。

「炎竜王の……鉄拳ンンンッ!!」

 

アイリーンは動かない。

杖すら構えない。

ただ、足元の少女を一瞥しただけ。

 

「……ウェンディ」

 

その名が呼ばれた瞬間。

ウェンディの瞳から迷いが消えた。

「――マザーに触れるなッ!!」

 

ドゴォォォォォォンッ!!!

 

ナツの拳を受け止めたのは、アイリーンではなかった。

ウェンディだ。

彼女はアイリーンの前に立ち塞がり、ナツの炎を「風」で相殺していた。

「なっ……ウェンディ!?」

ナツが驚愕する。

「下がりなさい、ナツさん!」

 

ウェンディが叫ぶ。その瞳は、正気を取り戻している。

正気だからこそ、揺るぎない意志でナツを拒絶していた。

「マザーは私の恩人です。……私を拾い、育ててくれた本当の母親なんです! たとえナツさんでも……マザーを傷つけるなら、私は貴方を殺します!」

殺気。

それは以前のような虚ろなものではない。

愛する者を守るための、悲壮な決意に満ちた殺気。

 

ナツは歯を食いしばった。

(くそっ……! どうすりゃいいんだ……!)

敵意を向けてくるなら戦える。

だが、ウェンディは本心からアイリーンを慕っている。

アイリーンを倒すことは、ウェンディの心を再び殺すことになるのではないか?

 

「……あらあら。困惑しているようね、炎竜王の息子」

アイリーンが愉悦の笑みを浮かべる。

「さあ、ウェンディ。証明なさい。……その男を殺して、私への愛を」

 

「はい、マザー」

ウェンディが構える。

その背後には、絶対的な魔女。

ナツの前には、かつての妹分という最強の盾。

どうするナツ。

拳では砕けない、愛という名の鎖。

「……わかったよ」

ナツは炎を鎮火させ、静かに構え直した。

 

「お前がそこまで言うなら、俺も本気でいく。……アイリーンごと、お前のその『歪んだ愛』もぶっ壊してやる!」

「やってみなさい!!」

再び激突する炎と風。

しかし今度は、ウェンディの心はアイリーンと共にあった。

ナツにとって、最も辛く、最も困難な戦いが幕を開ける。

 




次回、「第10話:炎の咆哮、母の呪縛」
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