緋に染まる天空   作:暁 蒼空

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第14話:彷徨う魂、緋色の再会

ザッ……ザッ……。

 

冷たい風が吹き荒れる岩場を、小さな影が歩いていた。

裸足の足は血にまみれ、鋭い岩角で切り裂かれている。

包帯が解けかけた右半身の火傷痕が、寒空に晒されて痛々しい。

 

「……マザー……」

 

ウェンディの口から漏れるのは、白い息と、壊れたレコードのような呟きだけ。

彼女の瞳には、目の前の険しい道など映っていない。

映っているのは、脳裏に焼き付いた「緋色の背中」だけだった。

「ごめんなさい……いい子にします……だから……」

 

転ぶ。膝を強打する。

それでも彼女は立ち上がる。痛みを感じていないかのように。

ただ、あの温かい揺り籠へ。

自分を肯定してくれた、唯一の場所へ。

 

――アイリーンの城、最上階バルコニー。

 

アイリーン・ベルセリオンは、ワイングラスを片手に、眼下に広がる広大な戦場を見下ろしていた。

その時、彼女の美しい眉がピクリと動いた。

「……あら?」

感知した。

微弱だが、決して見間違えることのない魔力。

かつて自分の魔力を分け与え、自分の色に染め上げた「緋色の種」。

「まだ動けたのね。……しぶとい子」

 

アイリーンはグラスを置いた。

方角は南西。ここから数キロの地点。

這うような速度だが、確実にこの城へ向かっている。

 

「壊れた玩具が、主人の元へ勝手に戻ってくるなんて。……不愉快だわ」

 

口ではそう吐き捨てた。

常なら、遠隔魔法で消し飛ばすか、配下に処理を命じるところだ。

だが、アイリーンは杖を手に取り、バルコニーの手すりに足をかけた。

「……引導を渡してあげるのが、創造主の慈悲かしら」

 

自ら赴く。

そう決めて、空へ舞い上がろうとした、その瞬間だった。

 

ピタリ。

 

アイリーンの足が止まった。

いや、動かなかった。

 

「……?」

彼女は自分の足を見下ろした。

金縛りの魔法など受けていない。身体機能に異常はない。

なのに、一歩が踏み出せない。

 

「何……これ?」

 

胸の奥が、ざわざわと波立っていた。

ウェンディの元へ行けば、あの子はまた縋り付いてくるだろう。

血まみれの手で、涙に濡れた瞳で、「マザー」と呼んで。

 

その姿を想像した瞬間、アイリーンの脳裏に過(よ)ぎったのは、「殺意」でも「嘲笑」でもなかった。

――『マザー、大好きです』

――『髪が綺麗ですね、マザー』

――『私、ずっとお側にいます』

 

1年間、あの子が向けてくれた無垢な笑顔。

打算も、恐怖もない。ただ純粋に、アイリーン・ベルセリオンという孤独な女を慕う温もり。

 

「……っ」

 

アイリーンは杖を握りしめる手に力を込めた。

行けば、またあの温もりに触れてしまう。

もし今、あの子の前に立ったら、私はあの子を殺せるのか?

それとも……抱きしめてしまうのか?

「馬鹿な……。私が? 竜の女王である私が、あんな失敗作に?」

否定しようとする理屈とは裏腹に、身体は鉛のように重かった。

これは「迷い」だ。

400年間、人の情など捨て去ったはずの自分が、たかだか1年共に過ごしただけの少女に、心を乱されている。

 

アイリーンは立ち尽くした。

行こうとしても、足が動かない。

あの子に会いたいのか、会いたくないのか。

愛しているのか、疎ましいのか。

 

今まで感じたことのない、胸を締め付けるような鈍い痛み。

それが「母性」の残り滓だとは認めたくなくて、彼女はその場に立ち尽くすしかなかった。

 

「……勝手になさい」

結局、彼女はバルコニーから動けなかった。

遠くから近づいてくる小さな灯火を、ただ呆然と感じ続けることしかできなかった。

 

――ウェンディの現在地。

 

「はぁ……はぁ……」

ウェンディの視界が霞む。

限界だった。

失血と疲労で、意識が途切れかける。

 

「マザー……どこ……?」

ガクン。

足がもつれ、ウェンディは地面に倒れ込んだ。

冷たい土の感触。

もう、指一本動かせない。

 

(ああ……ここで終わるんだ)

(マザーに会いたかったな……)

(もう一度、頭を撫でてほしかったな……)

 

薄れゆく意識の中、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。

マザーだろうか。

迎えに来てくれたのだろうか。

ウェンディは最後の力を振り絞り、顔を上げた。

「……マザー?」

 

そこに立っていたのは、緋色の髪の女性だった。

けれど、それはアイリーンではなかった。

「……ウェンディ」

エルザ・スカーレット。

彼女は悲痛な面持ちで、倒れ伏すウェンディを見下ろしていた。

その後ろには、息を切らして追いついたナツとグレイの姿もあった。

 

「……ちがう」

ウェンディの目から、光が失われていく。

絶望の色が濃くなる。

「あなたじゃ……ない……」

ウェンディは拒絶するように目を閉じた。

その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。

「……連れて行くぞ」

エルザが静かに告げ、ウェンディを抱き上げた。

その腕の中で、ウェンディは抵抗もしなかった。

ただ、心の中で、来なかった母の名を呼び続けていた。

 

城のバルコニーで立ち尽くすアイリーン。

母に会えず、連れ戻されるウェンディ。

二人の距離は、物理的にも心理的にも、決定的に引き裂かれたままだった。

 




次回、「第15話:閉ざされた心、開くための鍵」
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