ザッ……ザッ……。
冷たい風が吹き荒れる岩場を、小さな影が歩いていた。
裸足の足は血にまみれ、鋭い岩角で切り裂かれている。
包帯が解けかけた右半身の火傷痕が、寒空に晒されて痛々しい。
「……マザー……」
ウェンディの口から漏れるのは、白い息と、壊れたレコードのような呟きだけ。
彼女の瞳には、目の前の険しい道など映っていない。
映っているのは、脳裏に焼き付いた「緋色の背中」だけだった。
「ごめんなさい……いい子にします……だから……」
転ぶ。膝を強打する。
それでも彼女は立ち上がる。痛みを感じていないかのように。
ただ、あの温かい揺り籠へ。
自分を肯定してくれた、唯一の場所へ。
――アイリーンの城、最上階バルコニー。
アイリーン・ベルセリオンは、ワイングラスを片手に、眼下に広がる広大な戦場を見下ろしていた。
その時、彼女の美しい眉がピクリと動いた。
「……あら?」
感知した。
微弱だが、決して見間違えることのない魔力。
かつて自分の魔力を分け与え、自分の色に染め上げた「緋色の種」。
「まだ動けたのね。……しぶとい子」
アイリーンはグラスを置いた。
方角は南西。ここから数キロの地点。
這うような速度だが、確実にこの城へ向かっている。
「壊れた玩具が、主人の元へ勝手に戻ってくるなんて。……不愉快だわ」
口ではそう吐き捨てた。
常なら、遠隔魔法で消し飛ばすか、配下に処理を命じるところだ。
だが、アイリーンは杖を手に取り、バルコニーの手すりに足をかけた。
「……引導を渡してあげるのが、創造主の慈悲かしら」
自ら赴く。
そう決めて、空へ舞い上がろうとした、その瞬間だった。
ピタリ。
アイリーンの足が止まった。
いや、動かなかった。
「……?」
彼女は自分の足を見下ろした。
金縛りの魔法など受けていない。身体機能に異常はない。
なのに、一歩が踏み出せない。
「何……これ?」
胸の奥が、ざわざわと波立っていた。
ウェンディの元へ行けば、あの子はまた縋り付いてくるだろう。
血まみれの手で、涙に濡れた瞳で、「マザー」と呼んで。
その姿を想像した瞬間、アイリーンの脳裏に過(よ)ぎったのは、「殺意」でも「嘲笑」でもなかった。
――『マザー、大好きです』
――『髪が綺麗ですね、マザー』
――『私、ずっとお側にいます』
1年間、あの子が向けてくれた無垢な笑顔。
打算も、恐怖もない。ただ純粋に、アイリーン・ベルセリオンという孤独な女を慕う温もり。
「……っ」
アイリーンは杖を握りしめる手に力を込めた。
行けば、またあの温もりに触れてしまう。
もし今、あの子の前に立ったら、私はあの子を殺せるのか?
それとも……抱きしめてしまうのか?
「馬鹿な……。私が? 竜の女王である私が、あんな失敗作に?」
否定しようとする理屈とは裏腹に、身体は鉛のように重かった。
これは「迷い」だ。
400年間、人の情など捨て去ったはずの自分が、たかだか1年共に過ごしただけの少女に、心を乱されている。
アイリーンは立ち尽くした。
行こうとしても、足が動かない。
あの子に会いたいのか、会いたくないのか。
愛しているのか、疎ましいのか。
今まで感じたことのない、胸を締め付けるような鈍い痛み。
それが「母性」の残り滓だとは認めたくなくて、彼女はその場に立ち尽くすしかなかった。
「……勝手になさい」
結局、彼女はバルコニーから動けなかった。
遠くから近づいてくる小さな灯火を、ただ呆然と感じ続けることしかできなかった。
――ウェンディの現在地。
「はぁ……はぁ……」
ウェンディの視界が霞む。
限界だった。
失血と疲労で、意識が途切れかける。
「マザー……どこ……?」
ガクン。
足がもつれ、ウェンディは地面に倒れ込んだ。
冷たい土の感触。
もう、指一本動かせない。
(ああ……ここで終わるんだ)
(マザーに会いたかったな……)
(もう一度、頭を撫でてほしかったな……)
薄れゆく意識の中、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
マザーだろうか。
迎えに来てくれたのだろうか。
ウェンディは最後の力を振り絞り、顔を上げた。
「……マザー?」
そこに立っていたのは、緋色の髪の女性だった。
けれど、それはアイリーンではなかった。
「……ウェンディ」
エルザ・スカーレット。
彼女は悲痛な面持ちで、倒れ伏すウェンディを見下ろしていた。
その後ろには、息を切らして追いついたナツとグレイの姿もあった。
「……ちがう」
ウェンディの目から、光が失われていく。
絶望の色が濃くなる。
「あなたじゃ……ない……」
ウェンディは拒絶するように目を閉じた。
その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
「……連れて行くぞ」
エルザが静かに告げ、ウェンディを抱き上げた。
その腕の中で、ウェンディは抵抗もしなかった。
ただ、心の中で、来なかった母の名を呼び続けていた。
城のバルコニーで立ち尽くすアイリーン。
母に会えず、連れ戻されるウェンディ。
二人の距離は、物理的にも心理的にも、決定的に引き裂かれたままだった。
次回、「第15話:閉ざされた心、開くための鍵」