アルバレス帝国の城、最上階のバルコニー。
アイリーンは、自身の足元を見つめ、震えが止まらない右手を杖で強く握りしめていた。
「……何なの。この感情は……」
ウェンディの気配を感じ、会いに行こうとして足が止まった。
そして今、ウェンディがナツたちに回収され、遠ざかっていくのを感じて、胸が張り裂けそうなほど痛む。
400年もの間、忘却の彼方に捨て去ったはずの「母性」。
それが、皮肉にも「失敗作」と断じた少女によって呼び覚まされていた。
「認めない……。私は、私は……ッ!」
アイリーンの心が乱れる。
その精神の動揺は、彼女が維持していた超広域魔法に直接的な影響を及ぼした。
ズズズズズズズ……ッ!!
大地が鳴動する。
フィオーレ全土を覆っていた緋色の光が明滅し、歪み始める。
「ユニバースワンが……解ける!?」
アイリーンがハッとして空を見上げる。
集中力が途切れたのだ。
再構築された世界が、パズルのピースが崩れるように、あるべき場所へと戻ろうとしている。
「……チッ。まあいいわ。どうせナツ・ドラグニルたちはもう城の近くまで来ていたもの」
アイリーンは乱れた呼吸を整え、冷たい仮面を被り直した。
だが、その瞳の奥にある揺らぎまでは、消すことができなかった。
カッッッ!!!!
強烈な閃光と共に、世界が元に戻る。
気がつけば、ナツたちは見慣れたマグノリアの森の中にいた。
目の前には、半壊したままの「妖精の尻尾(フェアリーテイル)」のギルド建物がある。
「戻った……のか?」
ナツが周囲を見回す。
「ああ。アイリーンの魔法が解けたようだ。……理由はわからんがな」
エルザが、腕の中のウェンディを抱え直す。
ウェンディは、世界が変わる衝撃にも反応しなかった。
ただ虚空を見つめ、ぐったりとしている。
「急ごう! 医務室へ!」
ギルドの地下、臨時の医務室。
ベッドに横たえられたウェンディを、重苦しい空気が包んでいた。
「……傷は塞がった。だが、魂が戻ってこない」
ポーリュシカが悲痛な面持ちで首を振る。
「この子は、自分の殻に閉じこもっている。……外の世界を拒絶してな」
ルーシィが涙を堪えて話しかける。
「ウェンディ……聞こえる? 私よ、ルーシィよ」
ジュビアも手を握る。
「ジュビアです。……温かいお茶、淹れましょうか?」
ミラジェーンが優しく髪を撫でる。
「怖くないわよ。ここはあなたの家なのよ」
しかし、反応はない。
瞬き一つしない。
彼女の世界には、アイリーン以外の人間は存在しないかのように。
「くそっ……! なんでだよ!」
ナツが壁を殴る。
「体はここにあるのに! なんで心だけあいつの所に行っちまうんだよ!」
その時。
ギルドの扉が激しく開かれた。
「――どきなさいッ!!」
鋭い声と共に、一人の少女が飛び込んできた。
包帯だらけの身体。松葉杖をついているが、その瞳は燃えている。
「蛇姫の鱗(ラミアスケイル)」の天空の滅神魔導士、シェリア・ブレンディだ。
「シェリア!?」
リオンが支えようとするが、彼女はそれを振り払ってウェンディの元へ歩み寄る。
「ハルジオンでやられた傷が、まだ痛むわ。……あんたの風、すっごく痛かったんだから」
シェリアはウェンディのベッドの横に立つ。
そして、虚ろな目をしたかつての敵(とも)を見下ろした。
「……ねえ。私のこと、忘れたなんて言わせないわよ」
ウェンディは無反応だ。
シェリアは唇を噛み締め、ウェンディの胸倉を掴んで無理やり引き起こした。
「おい、やめろシェリア!」
グレイが止めようとするが、シェリアは叫んだ。
「あんたは私に勝ったんでしょ!? だったら、胸張って生きなさいよ!」
シェリアの目から涙が溢れる。
「『友達になれたかもしれない』って私が言った時、あんたは私をゴミみたいに見た! ……でもね、私には聞こえたのよ! あんたの風の音が!」
シェリアは自分の額を、ウェンディの額にゴツンと押し付けた。
ナツがやったような暴力的な頭突きではない。
魂と魂を繋ぐための、祈りのような接触。
「寂しいんでしょ? 誰かに愛されたいんでしょ? ……あの女(アイリーン)じゃなきゃダメなの? 私達じゃダメなの!?」
シェリアの魔力が、ウェンディへと流れ込む。
同系統の天空魔法。
だが、ウェンディのそれが「冷たい竜の風」なら、シェリアのそれは「温かい人の風」。
「思い出してよ……! あんたが笑ってた過去を! 想像してみてよ……! 私たちが友達になれた未来を!」
その熱が、ウェンディの閉ざされた心の扉をノックした。
アイリーンという絶対的な存在の影に隠れていた、小さな、本当に小さな「ウェンディ自身の願い」が、微かに震えた。
「……あ……」
ウェンディの喉が動いた。
焦点の合っていなかった瞳が、わずかに揺らぎ、目の前のピンク髪の少女を捉えた。
「……シェ……リ……ア……?」
蚊の鳴くような声。
しかし、それは確かに彼女自身の意志で紡がれた言葉だった。
「! ……そうよ! シェリアよ!」
シェリアが泣き笑いの顔で頷く。
ウェンディの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは「マザー」を求めて流す涙とは違う。
自分を求めてくれる「友」の温かさに触れて流す、再生の涙だった。
しかし、その光はまだあまりにも弱い。
アイリーンの呪縛を解くには、まだ何かが足りない。
そして、世界が元に戻ったということは、あの「緋色の絶望」がすぐそこまで迫っていることを意味していた。
次回、「第16話:緋色の来訪者、動かぬ人形」