時が止まったかのようだった。
ナツの拳は、ウェンディの鼻先数センチで止まっていた。
行き場を失った炎が、チリチリと空気を焦がす。
「……どけよ、ウェンディ」
ナツの声は震えていた。怒りではない。どうしようもない悲しみに震えていた。
「そいつは……アイリーンは、お前を不幸にするだけだ。お前を道具としか見てねえんだぞ!」
「……ちがう……」
ウェンディは首を振った。
その瞳は虚ろだが、妄執に近い意志の光だけは焼き付いている。
「マザーは……私を愛してくれた……。罪人の私に……生きる場所をくれた……」
彼女は両手を広げ、さらにアイリーンを庇うように立ち塞がる。
その体は限界を超えていた。立っているのが不思議なほどだ。
それでも彼女は、世界中の誰を敵に回しても、この「母」だけは守ると決めていた。
「ウェンディ……」
背後に倒れていたアイリーンが、ゆっくりと身を起こした。
口元の血を拭い、彼女は信じられないものを見る目で、自分のために盾となった少女を見つめた。
「なぜ……? 私はお前を捨てたのよ? 鱗が壊れたお前には価値がないと言ったのよ?」
「……価値なんて……なくていい……」
ウェンディが泣きながら答える。
「私が……マザーを好きだから……。それじゃ……ダメですか……?」
ドクン。
アイリーンの胸が早鐘を打った。
400年の妄執。竜化への絶望。エルザへの愛憎。
それら全てを塗りつぶすほどの、純粋で無償の愛が、目の前の小さな体から溢れていた。
(ああ……そうか)
アイリーンは悟った。
私が求めていたのは、完全な肉体でも、最強の力でもなかったのかもしれない。
ただ、こうして誰かに、無条件で愛されたかっただけなのかもしれない。
たとえそれが、歪んだ依存だったとしても。
「……ふふっ。馬鹿な子」
アイリーンは立ち上がり、ウェンディの肩に手を置いた。
そして、優しく横へと退かせた。
「マザー?」
「下がりなさい、ウェンディ。……これは私の戦いよ」
アイリーンはナツと、そしてその奥にいるエルザを見据えた。
エルザ。かつて自分が産み、捨てた実の娘。
ウェンディ。自分が拾い、壊してしまった偽りの娘。
二人の娘が、自分を見ている。
「エルザ」
アイリーンが静かに呼びかけた。
「……貴女が笑ったからよ」
「え?」
「生まれたばかりの貴女が私に笑いかけた。だから私は、貴女への『人格付加』を止め、貴女を捨てた。……自分を殺してまで、貴女を愛してしまったから」
エルザが息を呑む。
そしてアイリーンは、足元に落ちていた剣――エルザが落とした剣を拾い上げた。
「ウェンディ。……お前への『付加術(エンチャント)』は失敗だったわ」
アイリーンは静かに告げた。
「お前を私の新しい器にしようとした。……でも、お前は器にはなれなかった」
「ごめんなさい……! もっと努力します! だから……!」
「違うのよ」
アイリーンは首を振った。
その瞳に、今まで見せたことのない穏やかな光が宿る。
「器にしては……愛着が湧きすぎてしまった」
ドクン。
ウェンディの時が止まる。
「お前の笑顔を見るのが好きだった。お前が『マザー』と呼ぶ声が心地よかった。……ただの道具のくせに、私に『母親』の真似事をさせるなんて、生意気な子」
アイリーンは剣を逆手に持ち替えた。
切っ先が、ナツでもエルザでもなく、アイリーン自身の腹部に向けられる。
「な……?」
ナツが息を呑む。
エルザが目を見開く。
「マ……ザー……?」
ウェンディの顔から血の気が引いていく。
嫌な予感がする。心臓が凍りつくような予感が。
「これが最後の魔法よ」
アイリーンは、ウェンディを見て微笑んだ。
冷酷な魔女の仮面が砕け、そこにいたのは、ただの一人の不器用な母親だった。
「お前の心を縛る鎖は、私自身。……私が消えれば、お前は自由になれる」
「いや……いやぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
ウェンディが叫び、止めようと手を伸ばす。
しかし、遅かった。
「愛しているわ。……ウェンディ」
ズプッ。
鈍い音が響いた。
アイリーンが、自身の腹部に剣を深々と突き立てた。
「ガハッ……!」
鮮血が、ウェンディの頬に飛び散る。
緋色の血。
ウェンディが憧れ、同一化しようとした、その色の血。
「マザーーーーッ!!!!」
アイリーンの身体が崩れ落ちる。
ウェンディはそれを支えきれず、共に地面に倒れ込んだ。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……!」
ウェンディは血まみれのアイリーンを抱きしめ、狂ったように叫んだ。
「なんで……! なんで死ぬの!? 私を置いていかないで! 私にはマザーしかいないのに!」
アイリーンの視界が霞んでいく。
薄れゆく意識の中で、彼女は泣きじゃくるウェンディの頬に、血に染まった手を添えた。
「……泣かないで……」
アイリーンの声は、もう風前の灯火だった。
「生きなさい……。私という呪縛から解き放たれて……自由に……」
「いらない! 自由なんていらない!」
ウェンディが泣き叫ぶ。
「マザーがいない世界なんていらない! 私も連れてって! お願いだから一人にしないでぇぇぇッ!!」
その悲痛な叫びを聞きながら、アイリーンはエルザへと視線を移した。
「……エルザ」
「……ああ」
エルザは剣を下ろし、涙を流しながら頷いた。
「……あの子を……頼むわ……」
「約束する。……母上」
その言葉を聞いて、アイリーンは満足げに目を細めた。
そして再び、腕の中の小さな娘を見る。
アイリーンの瞳から光が消えていく。
彼女は最期の力を振り絞り、一つの魔法を紡いだ。
「『高位付加(ハイ・エンチャント)・人格再構成(リ・パーソナリティ)』……」
淡い緋色の光が、ウェンディを包み込む。
それは攻撃でも支配でもない。
崩壊したウェンディの心を繋ぎ止め、彼女自身を取り戻させる、母としての最期の贈り物。
「……笑って、ウェンディ。……私の、可愛い……娘……」
手が、力なく滑り落ちた。
賢竜アイリーン・ベルセリオン。
緋色の絶望と呼ばれた最強の女は、最期に娘を守るための死を選び、静かに息を引き取った。
「あ……あぁ……」
ウェンディの動きが止まった。
動かなくなったアイリーンを見つめる瞳から、光が完全に消え失せる。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!」
ウェンディは、亡骸にしがみつき、獣のように吼えた。
空に向かって。理不尽な世界に向かって。
彼女の「母」は、二度と目を開けない。
ナツも、エルザも、かける言葉が見つからなかった。
ただ、緋色に染まった空の下、少女の泣き声だけがいつまでも響いていた。
次回、「第19話:喪失の雨、再会の光」