緋に染まる天空   作:暁 蒼空

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第18話:緋色の終焉、最後の魔法

時が止まったかのようだった。

 

ナツの拳は、ウェンディの鼻先数センチで止まっていた。

行き場を失った炎が、チリチリと空気を焦がす。

 

「……どけよ、ウェンディ」

ナツの声は震えていた。怒りではない。どうしようもない悲しみに震えていた。

「そいつは……アイリーンは、お前を不幸にするだけだ。お前を道具としか見てねえんだぞ!」

 

「……ちがう……」

ウェンディは首を振った。

その瞳は虚ろだが、妄執に近い意志の光だけは焼き付いている。

「マザーは……私を愛してくれた……。罪人の私に……生きる場所をくれた……」

 

彼女は両手を広げ、さらにアイリーンを庇うように立ち塞がる。

その体は限界を超えていた。立っているのが不思議なほどだ。

それでも彼女は、世界中の誰を敵に回しても、この「母」だけは守ると決めていた。

 

「ウェンディ……」

 

背後に倒れていたアイリーンが、ゆっくりと身を起こした。

口元の血を拭い、彼女は信じられないものを見る目で、自分のために盾となった少女を見つめた。

 

「なぜ……? 私はお前を捨てたのよ? 鱗が壊れたお前には価値がないと言ったのよ?」

 

「……価値なんて……なくていい……」

ウェンディが泣きながら答える。

「私が……マザーを好きだから……。それじゃ……ダメですか……?」

 

ドクン。

アイリーンの胸が早鐘を打った。

400年の妄執。竜化への絶望。エルザへの愛憎。

それら全てを塗りつぶすほどの、純粋で無償の愛が、目の前の小さな体から溢れていた。

 

(ああ……そうか)

 

アイリーンは悟った。

私が求めていたのは、完全な肉体でも、最強の力でもなかったのかもしれない。

ただ、こうして誰かに、無条件で愛されたかっただけなのかもしれない。

 

たとえそれが、歪んだ依存だったとしても。

 

「……ふふっ。馬鹿な子」

 

アイリーンは立ち上がり、ウェンディの肩に手を置いた。

そして、優しく横へと退かせた。

 

「マザー?」

「下がりなさい、ウェンディ。……これは私の戦いよ」

 

アイリーンはナツと、そしてその奥にいるエルザを見据えた。

エルザ。かつて自分が産み、捨てた実の娘。

ウェンディ。自分が拾い、壊してしまった偽りの娘。

二人の娘が、自分を見ている。

 

「エルザ」

アイリーンが静かに呼びかけた。

「……貴女が笑ったからよ」

「え?」

「生まれたばかりの貴女が私に笑いかけた。だから私は、貴女への『人格付加』を止め、貴女を捨てた。……自分を殺してまで、貴女を愛してしまったから」

 

エルザが息を呑む。

そしてアイリーンは、足元に落ちていた剣――エルザが落とした剣を拾い上げた。

 

「ウェンディ。……お前への『付加術(エンチャント)』は失敗だったわ」

アイリーンは静かに告げた。

「お前を私の新しい器にしようとした。……でも、お前は器にはなれなかった」

 

「ごめんなさい……! もっと努力します! だから……!」

 

「違うのよ」

アイリーンは首を振った。

その瞳に、今まで見せたことのない穏やかな光が宿る。

「器にしては……愛着が湧きすぎてしまった」

 

ドクン。

ウェンディの時が止まる。

「お前の笑顔を見るのが好きだった。お前が『マザー』と呼ぶ声が心地よかった。……ただの道具のくせに、私に『母親』の真似事をさせるなんて、生意気な子」

 

アイリーンは剣を逆手に持ち替えた。

切っ先が、ナツでもエルザでもなく、アイリーン自身の腹部に向けられる。

 

「な……?」

ナツが息を呑む。

エルザが目を見開く。

 

「マ……ザー……?」

ウェンディの顔から血の気が引いていく。

嫌な予感がする。心臓が凍りつくような予感が。

 

「これが最後の魔法よ」

アイリーンは、ウェンディを見て微笑んだ。

冷酷な魔女の仮面が砕け、そこにいたのは、ただの一人の不器用な母親だった。

 

「お前の心を縛る鎖は、私自身。……私が消えれば、お前は自由になれる」

「いや……いやぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」

ウェンディが叫び、止めようと手を伸ばす。

 

しかし、遅かった。

「愛しているわ。……ウェンディ」

ズプッ。

鈍い音が響いた。

アイリーンが、自身の腹部に剣を深々と突き立てた。

 

「ガハッ……!」

鮮血が、ウェンディの頬に飛び散る。

緋色の血。

ウェンディが憧れ、同一化しようとした、その色の血。

「マザーーーーッ!!!!」

アイリーンの身体が崩れ落ちる。

ウェンディはそれを支えきれず、共に地面に倒れ込んだ。

 

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……!」

ウェンディは血まみれのアイリーンを抱きしめ、狂ったように叫んだ。

「なんで……! なんで死ぬの!? 私を置いていかないで! 私にはマザーしかいないのに!」

 

アイリーンの視界が霞んでいく。

薄れゆく意識の中で、彼女は泣きじゃくるウェンディの頬に、血に染まった手を添えた。

「……泣かないで……」

アイリーンの声は、もう風前の灯火だった。

「生きなさい……。私という呪縛から解き放たれて……自由に……」

 

「いらない! 自由なんていらない!」

ウェンディが泣き叫ぶ。

「マザーがいない世界なんていらない! 私も連れてって! お願いだから一人にしないでぇぇぇッ!!」

その悲痛な叫びを聞きながら、アイリーンはエルザへと視線を移した。

 

「……エルザ」

「……ああ」

エルザは剣を下ろし、涙を流しながら頷いた。

「……あの子を……頼むわ……」

「約束する。……母上」

 

その言葉を聞いて、アイリーンは満足げに目を細めた。

そして再び、腕の中の小さな娘を見る。

アイリーンの瞳から光が消えていく。

彼女は最期の力を振り絞り、一つの魔法を紡いだ。

 

「『高位付加(ハイ・エンチャント)・人格再構成(リ・パーソナリティ)』……」

 

淡い緋色の光が、ウェンディを包み込む。

それは攻撃でも支配でもない。

崩壊したウェンディの心を繋ぎ止め、彼女自身を取り戻させる、母としての最期の贈り物。

 

「……笑って、ウェンディ。……私の、可愛い……娘……」

 

手が、力なく滑り落ちた。

 

賢竜アイリーン・ベルセリオン。

緋色の絶望と呼ばれた最強の女は、最期に娘を守るための死を選び、静かに息を引き取った。

 

「あ……あぁ……」

ウェンディの動きが止まった。

動かなくなったアイリーンを見つめる瞳から、光が完全に消え失せる。

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!」

 

ウェンディは、亡骸にしがみつき、獣のように吼えた。

空に向かって。理不尽な世界に向かって。

 

彼女の「母」は、二度と目を開けない。

 

ナツも、エルザも、かける言葉が見つからなかった。

ただ、緋色に染まった空の下、少女の泣き声だけがいつまでも響いていた。

 




次回、「第19話:喪失の雨、再会の光」
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