医務室の空気は、鉛のように重かった。
ベッドには、全身を包帯で巻かれたルーシィが横たわっている。意識はない。
セイバートゥースのミネルバによる執拗な攻撃は、ルーシィの身体だけでなく、見守っていた仲間たちの心までをも深く抉(えぐ)っていた。
「……くそっ!!」
ナツが壁を殴りつける。石壁に亀裂が走り、パラパラと粉塵が舞う。
「あいつら……絶対に許さねえ……!」
「ああ。必ず借りは返す」
グレイの声も低く沈んでいる。エルザは沈痛な面持ちで腕を組み、ただ静かに怒気を滾らせていた。
チームは再編成を余儀なくされていた。
レイヴンテイルの失格により、各ギルドから5名の選抜メンバーで最終日を戦うことになったのだ。しかし、今のルーシィには戦うどころか、起き上がる力さえ残されていない。
「問題は、ルーシィの代わりを誰にするかじゃが……」
ポーリュシカが渋い顔で告げる。
「今のメンバーで無傷な者は少ない。お前たちも満身創痍だろう」
沈黙が落ちる。
その時だった。
「──感情で魔力を乱すのは、非効率です」
鈴を転がすような、けれど絶対零度のように冷たい声が響いた。
全員が弾かれたように振り返る。
いつの間にか、病室の入り口に深い緋色のローブを纏った人影が立っていた。
気配は全くなかった。そこに「いる」のに、まるで風景の一部のように同化していたのだ。
「誰だ!」
エルザが警戒して誰何(すいか)する。
だが、その人影は答えない。音もなく床を滑るように歩を進め、ルーシィのベッドへ。
ポーリュシカが制止しようとするより速く、その手から赤黒い光が放たれた。
「なっ!?」
攻撃かと思われたその光は、複雑怪奇な術式を描き出し、瞬く間にルーシィの身体へと吸い込まれていく。
荒かった呼吸が整い、苦悶に歪んでいた表情が穏やかになる。
神業のような治癒──いや、状態の「再構成(エンチャント)」。
その魔法の残滓(ざんし)を感じ取り、シャルルが目を見開いた。
全身の毛が逆立つ。この匂い、この魔力の波長。
忘れるはずがない。
「うそ……ウェンディ……?」
その名前に、時が止まった。
ローブのフードが、白く滑らかな手によって下ろされる。
現れたのは、腰まで伸びた艶やかな群青の髪。そして、七年の時を経て少女から女性へと変化した、かつての「天空の巫女」の姿だった。
「ウェンディ……なのか?」
ナツが呆然と呟く。
生きていた。あの日、天狼島で死んだと思っていた妹分が、目の前にいる。
歓喜が爆発しそうになった。
「ウェンディ──ッ!!」
たまらず、シャルルが泣きながらウェンディの胸に飛び込んだ。
七年間、片時も忘れたことのなかった相棒。
その温かさに触れた瞬間、ウェンディの心臓は早鐘を打った。
(ああ、シャルルだ。温かい。ふわふわしてる。ずっと、この温もりに触れたかった。寂しかったよ、怖かったよシャルル……!)
心の中では、かつての少女のように泣きじゃくっていた。
強く抱きしめて、顔を埋めて、「寂しかった」と叫びたかった。
けれど。
ウェンディの身体は、冷たい彫像のように動かなかった。
抱きしめようと脳が命令を送るのに、指先ひとつ動かせない。七年間、アイリーンの元で張り詰め続けた「復讐者」の仮面は、筋肉の動きさえも封じてしまっていた。
(動いて。お願い、動いてよ私の手! シャルルを撫でてあげてよ!)
必死の願いとは裏腹に、口から滑り出たのは、師匠から骨の髄まで叩き込まれた「強者の論理」だった。
「……離れてください。動きにくいです」
その声の冷たさに、シャルルがびくりと震えて身体を離す。
傷ついたようなシャルルの顔を見て、ウェンディの心が悲鳴を上げた。
(違う! そんなこと言いたいんじゃない! ごめんね、ごめんねシャルル!)
激しい自己嫌悪で、胃が焼き切れそうになる。
それでも、ウェンディの顔には微塵の動揺も浮かばない。ただ静寂な瞳で、愛する仲間たちを見つめることしかできない。
「少し重くなりましたか、シャルル」
「え……?」
「泣くのは非効率です。……視界が悪くなりますよ」
あまりの変貌に、グレイやエルザも言葉を失う。
笑顔がない。かつての彼女の優しさが見えない。
まるで、精巧に作られた美しい人形がそこに立っているようだった。
「ウェンディ、お前……」
ナツが歩み寄る。
その鼻がピクリと動く。何かを言おうとして、ナツは口を閉ざした。
彼女から漂うのは、あまりにも濃密な「血」と「孤独」の匂い。そして、かつての彼女とは別次元の、鋭利な魔力の気配。
ナツは、ウェンディの頭に手を伸ばそうとして──止めた。
今の彼女には、安易に触れてはいけない空気があった。
「……生きてたんだな」
ナツが絞り出した言葉は、それだけだった。
「はい。生存報告が遅れて申し訳ありません」
ウェンディは淡々と答え、すぐに視線をマカロフへと向けた。
そこに「再会の喜び」を共有する余地はない。あるのは「業務連絡」のような冷たさだけだ。
「チームの欠員、私が埋めます。──今の『妖精の尻尾(フェアリーテイル)』には、私の力が必要でしょう?」
マカロフが眉をひそめる。
「ウェンディよ。お主、戦えるのか? 今の相手は……」
「ドラゴンスレイヤーが二人。存じています」
ウェンディは言葉を遮り、無造作に片足を一歩踏み出した。
ズンッ。
それだけで、医務室全体が重力魔法のプレッシャーで軋み、窓ガラスにヒビが入る。
エルザやラクサスですら、肌に感じる魔力の密度に冷や汗を流した。
それは、味方すらも萎縮させるような、禍々しくも神々しい力。
「……勝つんでしょう? なら、私を使ってください。最適解を出してみせます」
その言葉は、もはやかつての臆病な少女のものではなかった。
緋色の絶望を背負い、天空を駆ける孤高の滅竜魔導士。
最強の、そして誰よりも「遠い」存在となった助っ人が、ここに加わった。
次回、「第4話:妖精の進撃、緋色の視線」。