マグノリアの空から、ポツリ、ポツリと雨が落ちてきた。
それは、戦火に焼かれた大地を冷まし、流された血を洗い流すための、天の涙のようだった。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ……! マザー……! マザー……!」
ウェンディの泣き声だけが、雨音に混じって響いていた。
彼女はアイリーンの亡骸を抱きしめたまま、離れようとしなかった。
アイリーンの身体から体温が失われていく。
かつて世界を震え上がらせた「緋色の絶望」は、今はただの静かな女性の顔をして眠っていた。
「……ウェンディ」
エルザが静かに歩み寄る。
彼女もまた、実の母の死を目の当たりにし、複雑な感情を抱いていた。
愛された記憶はない。捨てられた恨みもある。
けれど、最期に彼女は、自分とウェンディを守るために命を絶った。
「もう……逝かせてやるんだ」
エルザがウェンディの肩に手を置く。
ウェンディは激しく首を振った。
「イヤです……! 離したくない……! 私が……私が弱かったから……マザーは……!」
「違う。……あの方は、お前を生かしたかったのだ」
エルザは、アイリーンの死に顔を見つめ、短く告げた。
「さようなら、母さん。……貴女は、不器用すぎる」
その言葉は、初めてエルザがアイリーンを「母」と呼んだ瞬間だった。
ナツは、少し離れた場所で空を見上げていた。
雨が顔を濡らす。
拳に残る感触。ウェンディを殴れなかった拳。
「……終わったんだな」
ナツが呟くと、後ろから足音がした。
シェリア、グレイ、そしてシャルルたちが駆けつけてきたのだ。
「ウェンディ!」
シャルルが叫び、ウェンディの元へ飛び込む。
「ウェンディ……! 無事なのね……!」
シャルルの声に、ウェンディが顔を上げた。
その瞳。
かつて宿っていた狂気や、焦点の合わない虚ろさは消えていた。
アイリーンの最期の魔法が、彼女の精神を繋ぎ止めたのだ。
あるのは、深い悲しみと、正気を取り戻した故の激しい後悔。
「シャルル……」
ウェンディの声が震える。
「私……みんなに……酷いことを……」
記憶は鮮明だった。
ナツを傷つけたこと。エルザを罵倒したこと。シェリアを拒絶したこと。
そして、イグニールを殺したという罪悪感から逃げるために、アイリーンという「安らぎ」に逃げ込んだ自分の弱さ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
ウェンディは子供のように謝り続けた。
自分の犯した罪の重さに押しつぶされそうになっていた。
「バカね」
シェリアが、泥だらけのままウェンディを抱きしめた。
「あんたが生きてれば、それでいいのよ。……謝るくらいなら、生きて償いなさいよ!」
「ウェンディ」
ナツが近づき、彼女の前にしゃがみ込んだ。
その表情は、いつもの悪戯っぽい笑顔ではなく、頼れる兄の顔だった。
「立てるか?」
ウェンディはアイリーンの服の裾を握りしめ、躊躇った。
この場所(マザーの傍)を離れるのが怖かった。
「……行かなきゃダメですか? マザーを一人にして……」
「あいつはもう、一人じゃねえよ」
ナツは、静かに眠るアイリーンを見た。
「お前の心の中にいるんだろ? ……だったら、お前が生きている限り、あいつも一緒に生きてる」
その言葉に、ウェンディの目からまた涙が溢れた。
でも今度は、絶望の涙ではなかった。
前を向くための、決別の涙。
「……はい」
ウェンディは、震える足で立ち上がった。
右半身の鱗はもうない。
ただ、火傷のような傷跡と、アイリーンとお揃いの緋色の軍服だけが、彼女が過ごした「1年」の証として残っていた。
「帰りましょう」
シャルルが涙を拭いて言う。
「私たちのギルドへ」
ウェンディは、最後に一度だけアイリーンを振り返り、深く頭を下げた。
「ありがとう……マザー。……大好きでした」
雨が上がり、雲の隙間から夕日が差し込む。
その光は、傷ついた少女と、彼女を支える仲間たちを優しく照らした。
しかし。
この安息は、束の間のものに過ぎなかった。
ドクン。
ナツの心臓が、嫌な音を立てた。
ウェンディも、ガジルも、その場にいた滅竜魔導士(ドラゴンスレイヤー)全員が、空を見上げて戦慄した。
風が変わった。
雨上がりの清浄な空気が、一瞬にして濃密な「死」の匂いに塗り替えられる。
「なんだ……この魔力は……?」
エルザが警戒を強める。
空の彼方から、黒い影が迫っていた。
それはアイリーンなど比較にならない、正真正銘の「絶望」。
全ての竜を喰らい尽くす、竜の王。
『我が名はアクノロギア……』
最悪の来訪者が、マグノリアの空に降り立とうとしていた。
次回、「第20話:黒き翼、終焉の咆哮」