フィオーレ王国の北端、万年雪が降り積もる霊峰ゾニア。
その頂に近い、かつて忘れ去られた古代遺跡の中に、二人の隠れ家があった。
外は猛吹雪だが、遺跡の内部はアイリーンの付加術(エンチャント)によって、春のような暖かさが保たれている。
豪奢な天蓋付きのベッド。最高級の調度品。
それらは全て、アイリーンが魔法で生成したものだ。
「……コホッ、コホッ……うぅ……」
ベッドの上で、ウェンディが苦しげに咳き込んだ。
口元を抑えた白いハンカチが、鮮血で赤く染まる。
彼女の美しい蒼色の髪は、右半分が老婆のような白髪に変色し、肌は透き通るほど蒼白だった。
「お目覚め? ウェンディ」
ふわりと甘い香りが漂う。
アイリーンが、湯気の立つカップを持ってベッドサイドに腰掛けた。
その姿は、かつてのスプリガン12の威圧感はなく、病弱な娘を甲斐甲斐しく世話する母親そのものだった。
「マザー……。ごめんなさい、また……寝てしまって……」
ウェンディが弱々しく体を起こそうとする。
「いいのよ。お前は命を削ったのだから。……今はただ、私に甘えていればいい」
アイリーンはウェンディの背中を優しく支え、カップを口元に運んだ。
中身は、高濃度の魔力回復薬と、鎮痛作用のあるハーブティー。
「飲みなさい。……楽になるわ」
「……はい」
ウェンディは素直にそれを飲み干した。
喉の焼けるような痛みと、肺の軋みがスッと引いていく。
アイリーンの魔法薬は、今の彼女にとって唯一の命綱だった。
「いい子ね」
アイリーンは、ウェンディの白髪が混じった頭を愛おしそうに撫でた。
その瞳には、深い哀れみと、それ以上の歪んだ歓喜が宿っている。
(ああ、なんて愛おしい。……この傷ついた体も、削れた命も、すべて私への愛の証)
アイリーンにとって、今のウェンディは「完成された芸術品」だった。
自分を蘇らせるために壊れてしまった人形。
これほど美しいものが、他にあるだろうか。
午後。
体調が落ち着いたウェンディは、アイリーンと共に遺跡の広間にいた。
「いいこと、ウェンディ。……もう『治癒』や『支援』の魔法など忘れてしまいなさい」
アイリーンが冷徹に告げる。
彼女が杖を振ると、空中に複雑な魔法陣が展開された。
「お前が覚えるべきは、敵を排除し、自分を守るための『破壊』と『支配』の付加術よ」
「は、はい……」
ウェンディは杖を構える。
かつては「誰も傷つけたくない」と願っていた少女の手は、今や禁忌の魔力に染まっている。
「やってごらん。……目の前の岩を『原子崩壊』させるイメージで」
ウェンディが魔力を練る。
しかし、呼吸が乱れる。
「ぐっ……! 『分離付加(エンチャント)・崩……壊』ッ!!」
ドォォン!!
岩が弾け飛ぶ。
だが、その反動でウェンディもまた、膝から崩れ落ちた。
「ハァ……ハァ……ッ! ゲホッ!」
また血を吐く。
視界が揺れる。
「……まだ未熟ね」
アイリーンがすぐに駆け寄り、抱き起こした。
叱責ではない。むしろ、その声は甘かった。
「でも、それでいいわ。……お前が弱ければ弱いほど、私が守ってあげられる」
アイリーンはウェンディの頬についた血を指で拭い、それを自分の唇で舐め取った。
「お前はもう、誰のためにも戦わなくていい。……ただ、私の腕の中で生きていればいいのよ」
それは呪いのような言葉だった。
ウェンディから「自立」を奪い、「依存」を植え付ける教育。
「……はい、マザー。……私は貴女のもの……」
ウェンディの瞳から、理性の光が消えていく。
彼女はもう、自分が何のために魔法を学んでいたのかさえ、思い出せなくなっていた。
一方、マグノリア。
妖精の尻尾(フェアリーテイル)のギルドホールは、重苦しい沈黙ではなく、爆発寸前の熱気に包まれていた。
「ふざけんなッ!! 絶対に連れ戻す!!」
ナツがテーブルを叩き割る。
彼の目には涙が溜まっていたが、それ以上に激しい怒りが燃えていた。
「ウェンディがあんな……あんな身体ボロボロにしてまで選んだのが、あの女だなんて認めねえぞ!」
「落ち着けナツ」
グレイが諌めるが、その拳も震えている。
「……シャルルの話じゃ、ウェンディは寿命を削る禁術を使ったらしい。放っておけば、あいつは死ぬ」
「死なせるかよ!!」
ナツが吼える。
カウンターの隅で、シャルルはうなだれていた。
「私のせいよ……。もっと早く気づいていれば……止められたのに……」
「シャルル……」
ハッピーが背中をさする。
そこへ、調査に出ていたエルザが戻ってきた。
その表情は硬い。
「……居場所の手がかりを掴んだ」
エルザが地図を広げる。
「北の霊峰ゾニア。……あそこに、異常な魔力反応がある。おそらく、母上……アイリーンのものだ」
「北か! すぐに行くぞ!」
ナツが飛び出そうとする。
「待てナツ」
エルザが止めた。
「相手は、私の母にして最強の付加術士。それに……今のウェンディは、正気ではない」
エルザは、ウェンディが残していった「アイリーンの髪が入っていた空き瓶」を見つめた。
そこに残る狂気じみた執着の匂い。
「我々は、ウェンディだけでなく……アイリーンとも戦う覚悟が必要だ。たとえ、ウェンディがそれを望んでいなくても」
「関係ねえ!」
ナツが拳を握りしめる。
「ブン殴ってでも連れて帰る! それが家族だろ!」
ギルドの意志は固まった。
奪われた妹を取り戻すため、妖精の尻尾が総力を挙げて北へ向かう。
しかし、彼らはまだ知らない。
ウェンディの心は、もう彼らの声が届かないほど深く、緋色の闇に沈んでしまっていることを。
霊峰ゾニア、遺跡の夜。
窓の外は吹雪いているが、ウェンディはアイリーンの膝枕で微睡んでいた。
アイリーンが子守唄を口ずさみながら、ウェンディの白い髪を梳いている。
「ねえ、マザー」
「なぁに?」
「もし……ナツさんたちが来たら……どうしますか?」
ウェンディの問いに、アイリーンの手が止まった。
一瞬だけ、部屋の温度が氷点下まで下がったような殺気が走る。
「……来させないわ」
アイリーンは優しく微笑んだ。
「もし来たら……今度こそ、私が全員消してあげる。……お前を惑わす『悪い虫』は、一匹残らずね」
「……はい。お願いします」
ウェンディは安心して目を閉じた。
かつての仲間が殺されるかもしれないというのに、彼女の心は痛まなかった。
マザーがいれば、他には何もいらない。
その歪んだ幸福の中で、少女の命の灯火は、小さく、しかし激しく燃え続けていた。
次回、「第7話:断罪の炎、拒絶の風」