緋に染まる天空   作:暁 蒼空

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第6話:逃避行、緋色の空の下で

フィオーレ王国の北端、万年雪が降り積もる霊峰ゾニア。

 その頂に近い、かつて忘れ去られた古代遺跡の中に、二人の隠れ家があった。

 外は猛吹雪だが、遺跡の内部はアイリーンの付加術(エンチャント)によって、春のような暖かさが保たれている。

 豪奢な天蓋付きのベッド。最高級の調度品。

 それらは全て、アイリーンが魔法で生成したものだ。

「……コホッ、コホッ……うぅ……」

 ベッドの上で、ウェンディが苦しげに咳き込んだ。

 口元を抑えた白いハンカチが、鮮血で赤く染まる。

 彼女の美しい蒼色の髪は、右半分が老婆のような白髪に変色し、肌は透き通るほど蒼白だった。

「お目覚め? ウェンディ」

 ふわりと甘い香りが漂う。

 アイリーンが、湯気の立つカップを持ってベッドサイドに腰掛けた。

 その姿は、かつてのスプリガン12の威圧感はなく、病弱な娘を甲斐甲斐しく世話する母親そのものだった。

「マザー……。ごめんなさい、また……寝てしまって……」

 ウェンディが弱々しく体を起こそうとする。

「いいのよ。お前は命を削ったのだから。……今はただ、私に甘えていればいい」

 アイリーンはウェンディの背中を優しく支え、カップを口元に運んだ。

 中身は、高濃度の魔力回復薬と、鎮痛作用のあるハーブティー。

「飲みなさい。……楽になるわ」

「……はい」

 ウェンディは素直にそれを飲み干した。

 喉の焼けるような痛みと、肺の軋みがスッと引いていく。

 アイリーンの魔法薬は、今の彼女にとって唯一の命綱だった。

「いい子ね」

 アイリーンは、ウェンディの白髪が混じった頭を愛おしそうに撫でた。

 その瞳には、深い哀れみと、それ以上の歪んだ歓喜が宿っている。

 (ああ、なんて愛おしい。……この傷ついた体も、削れた命も、すべて私への愛の証)

 アイリーンにとって、今のウェンディは「完成された芸術品」だった。

 自分を蘇らせるために壊れてしまった人形。

 これほど美しいものが、他にあるだろうか。

 午後。

 体調が落ち着いたウェンディは、アイリーンと共に遺跡の広間にいた。

「いいこと、ウェンディ。……もう『治癒』や『支援』の魔法など忘れてしまいなさい」

 アイリーンが冷徹に告げる。

 彼女が杖を振ると、空中に複雑な魔法陣が展開された。

「お前が覚えるべきは、敵を排除し、自分を守るための『破壊』と『支配』の付加術よ」

「は、はい……」

 ウェンディは杖を構える。

 かつては「誰も傷つけたくない」と願っていた少女の手は、今や禁忌の魔力に染まっている。

「やってごらん。……目の前の岩を『原子崩壊』させるイメージで」

 ウェンディが魔力を練る。

 しかし、呼吸が乱れる。

「ぐっ……! 『分離付加(エンチャント)・崩……壊』ッ!!」

 ドォォン!!

 岩が弾け飛ぶ。

 だが、その反動でウェンディもまた、膝から崩れ落ちた。

「ハァ……ハァ……ッ! ゲホッ!」

 また血を吐く。

 視界が揺れる。

「……まだ未熟ね」

 アイリーンがすぐに駆け寄り、抱き起こした。

 叱責ではない。むしろ、その声は甘かった。

「でも、それでいいわ。……お前が弱ければ弱いほど、私が守ってあげられる」

 アイリーンはウェンディの頬についた血を指で拭い、それを自分の唇で舐め取った。

「お前はもう、誰のためにも戦わなくていい。……ただ、私の腕の中で生きていればいいのよ」

 それは呪いのような言葉だった。

 ウェンディから「自立」を奪い、「依存」を植え付ける教育。

「……はい、マザー。……私は貴女のもの……」

 ウェンディの瞳から、理性の光が消えていく。

 彼女はもう、自分が何のために魔法を学んでいたのかさえ、思い出せなくなっていた。

 一方、マグノリア。

 妖精の尻尾(フェアリーテイル)のギルドホールは、重苦しい沈黙ではなく、爆発寸前の熱気に包まれていた。

「ふざけんなッ!! 絶対に連れ戻す!!」

 ナツがテーブルを叩き割る。

 彼の目には涙が溜まっていたが、それ以上に激しい怒りが燃えていた。

「ウェンディがあんな……あんな身体ボロボロにしてまで選んだのが、あの女だなんて認めねえぞ!」

「落ち着けナツ」

 グレイが諌めるが、その拳も震えている。

「……シャルルの話じゃ、ウェンディは寿命を削る禁術を使ったらしい。放っておけば、あいつは死ぬ」

「死なせるかよ!!」

 ナツが吼える。

 カウンターの隅で、シャルルはうなだれていた。

 「私のせいよ……。もっと早く気づいていれば……止められたのに……」

 「シャルル……」

 ハッピーが背中をさする。

 そこへ、調査に出ていたエルザが戻ってきた。

 その表情は硬い。

「……居場所の手がかりを掴んだ」

 エルザが地図を広げる。

「北の霊峰ゾニア。……あそこに、異常な魔力反応がある。おそらく、母上……アイリーンのものだ」

「北か! すぐに行くぞ!」

 ナツが飛び出そうとする。

「待てナツ」

 エルザが止めた。

「相手は、私の母にして最強の付加術士。それに……今のウェンディは、正気ではない」

 エルザは、ウェンディが残していった「アイリーンの髪が入っていた空き瓶」を見つめた。

 そこに残る狂気じみた執着の匂い。

「我々は、ウェンディだけでなく……アイリーンとも戦う覚悟が必要だ。たとえ、ウェンディがそれを望んでいなくても」

「関係ねえ!」

 ナツが拳を握りしめる。

「ブン殴ってでも連れて帰る! それが家族だろ!」

 ギルドの意志は固まった。

 奪われた妹を取り戻すため、妖精の尻尾が総力を挙げて北へ向かう。

 しかし、彼らはまだ知らない。

 ウェンディの心は、もう彼らの声が届かないほど深く、緋色の闇に沈んでしまっていることを。

 霊峰ゾニア、遺跡の夜。

 窓の外は吹雪いているが、ウェンディはアイリーンの膝枕で微睡んでいた。

 アイリーンが子守唄を口ずさみながら、ウェンディの白い髪を梳いている。

「ねえ、マザー」

「なぁに?」

「もし……ナツさんたちが来たら……どうしますか?」

 ウェンディの問いに、アイリーンの手が止まった。

 一瞬だけ、部屋の温度が氷点下まで下がったような殺気が走る。

「……来させないわ」

 アイリーンは優しく微笑んだ。

「もし来たら……今度こそ、私が全員消してあげる。……お前を惑わす『悪い虫』は、一匹残らずね」

「……はい。お願いします」

 ウェンディは安心して目を閉じた。

 かつての仲間が殺されるかもしれないというのに、彼女の心は痛まなかった。

 マザーがいれば、他には何もいらない。

 その歪んだ幸福の中で、少女の命の灯火は、小さく、しかし激しく燃え続けていた。




次回、「第7話:断罪の炎、拒絶の風」
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