緋に染まる天空   作:暁 蒼空

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第9話:空虚な空、満たされぬ器

フィオーレ王国の西端、荒涼とした海岸線にある隠れ家。

 波の音が、死へのカウントダウンのように一定のリズムで響いていた。

「……ゲホッ! カハッ……!」

 豪奢なベッドの上で、ウェンディがシーツを赤く染め上げた。

 喀血。

 それも、一度や二度ではない。呼吸をするたびに、命が喉から溢れ出てくるようだった。

「ウェンディ! しっかりしなさい!」

 アイリーン・ベルセリオンが、金切り声を上げた。

 彼女の手には、最高級の回復薬(ポーション)の瓶が握られているが、震えて上手く蓋が開けられない。

 カチャン、と瓶が床に落ちて割れた。

「くそっ……! なぜ……なぜ効かないの!」

 アイリーンは杖を振りかざした。

 緋色の魔力が部屋中を埋め尽くす。

「『高位付加(ハイ・エンチャント)・細胞活性(セル・アクティベーション)』!」

「『状態異常回復(リカバリー)』!」

「『生命維持(ライフ・サポート)』!」

 次々と高位の治癒魔法を重ねがけする。

 普通なら、死人さえ蘇るほどの魔力供給。

 しかし、ウェンディの体はザルのように魔力をすり抜け、顔色は死人のように蒼白なままだった。

「……あ……マザー……」

 ウェンディの瞳がうっすらと開く。

 その髪は、もう半分以上が白く変色し、老婆のようにパサついている。

 肌は乾燥し、頬はこけ、かつての愛らしい面影は見る影もない。

「喋らなくていいわ! 今、治してあげるから!」

 アイリーンが叫ぶ。

 その額には脂汗が滲み、呼吸が荒い。

 スプリガン12として君臨していた頃の、あの絶対的な余裕はどこにもなかった。

「どうして……どうして治らないのよ……」

 アイリーンはウェンディの冷たい手を握りしめ、自分の額に押し当てた。

 恐怖。

 400年もの間、忘れていた感情。

 自分の命が尽きることなど恐れていなかった。だが、この小さな「器」が壊れることが、今の彼女には何よりも恐ろしかった。

「……マザー。……もう、いいんです」

 ウェンディが、蚊の鳴くような声で囁いた。

 焦点の合わない瞳で、アイリーンの顔を探すように彷徨う。

「私……十分、幸せでした……。マザーともう一度会えて……一緒にいられて……」

「何を言っているの!? バカなことを言わないで!」

 アイリーンが声を荒らげる。

「お前がいなくなったら、私はどうなるの!? 誰が私を愛してくれるの!?」

「ごめんなさい……。私……もう、眠いんです……」

 ウェンディの瞼が重く落ちていく。

 彼女の中の「寿命」というロウソクは、燃え尽きる寸前だった。

 ナツたちとの戦いで、無理やり強化魔法を使った代償が、ここで一気にツケとして回ってきたのだ。

「ダメよ! 寝ちゃダメ! ウェンディ!!」

 アイリーンがウェンディの体を揺する。

 反応がない。

 呼吸が浅い。

 心臓の鼓動が、今にも止まりそうなほど弱い。

「……あぁ……あぁぁぁ……ッ!」

 アイリーンは頭を抱え、獣のような悲鳴を上げた。

 賢竜の知識を持ってしても、「寿命の尽きた人間」を治す術はない。

 器が壊れかけているのだ。どれだけ水を注いでも、底から漏れ出していくだけ。

「……足りないのね」

 アイリーンが顔を上げた。

 その瞳孔が開いている。

 極限の焦燥と恐怖が、彼女の理性を焼き切った。

「命が足りないのなら……足せばいい」

 彼女は窓の外を見た。

 ここから数キロ先には、港町がある。

 数千人の人間が住む、活気ある街。

「数百人程度では、お前の命を繋ぎ止められなかった。……なら」

 アイリーンが立ち上がる。

 その背中から、禍々しい緋色のオーラが噴き出し、遺跡の天井を突き破った。

「数千人……いや、数万人でもいい。国一つ滅ぼしてでも、お前の器を満たしてあげる」

 それは母親の愛ではない。

 孤独を恐れる魔女の、狂気じみた執着。

「待っていて、ウェンディ。……すぐに『特効薬』を持ってくるわ」

 アイリーンは、死にかけている娘の額にキスをした。

 その唇は震えていた。

「誰にも渡さない。お前は私だけのもの。……死神にだって、渡さないんだから……ッ!」

 ドォォォォォンッ!!

 アイリーンが空へと飛び出した。

 向かう先は港町。

 ウェンディ一人の命を永らえさせるためだけに、彼女は無辜(むこ)の民を虐殺しに行く。

 部屋に残されたのは、静寂と、浅い呼吸を繰り返す少女だけ。

 その目尻から、一筋の涙が伝い落ちた。

 止めてほしかったのか、それとも感謝しているのか。

 今の彼女には、それを口にする力さえ残されていなかった。




次回、「第10話:緋色の虐殺、滅竜の咆哮」
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