フィオーレ王国の西端、荒涼とした海岸線にある隠れ家。
波の音が、死へのカウントダウンのように一定のリズムで響いていた。
「……ゲホッ! カハッ……!」
豪奢なベッドの上で、ウェンディがシーツを赤く染め上げた。
喀血。
それも、一度や二度ではない。呼吸をするたびに、命が喉から溢れ出てくるようだった。
「ウェンディ! しっかりしなさい!」
アイリーン・ベルセリオンが、金切り声を上げた。
彼女の手には、最高級の回復薬(ポーション)の瓶が握られているが、震えて上手く蓋が開けられない。
カチャン、と瓶が床に落ちて割れた。
「くそっ……! なぜ……なぜ効かないの!」
アイリーンは杖を振りかざした。
緋色の魔力が部屋中を埋め尽くす。
「『高位付加(ハイ・エンチャント)・細胞活性(セル・アクティベーション)』!」
「『状態異常回復(リカバリー)』!」
「『生命維持(ライフ・サポート)』!」
次々と高位の治癒魔法を重ねがけする。
普通なら、死人さえ蘇るほどの魔力供給。
しかし、ウェンディの体はザルのように魔力をすり抜け、顔色は死人のように蒼白なままだった。
「……あ……マザー……」
ウェンディの瞳がうっすらと開く。
その髪は、もう半分以上が白く変色し、老婆のようにパサついている。
肌は乾燥し、頬はこけ、かつての愛らしい面影は見る影もない。
「喋らなくていいわ! 今、治してあげるから!」
アイリーンが叫ぶ。
その額には脂汗が滲み、呼吸が荒い。
スプリガン12として君臨していた頃の、あの絶対的な余裕はどこにもなかった。
「どうして……どうして治らないのよ……」
アイリーンはウェンディの冷たい手を握りしめ、自分の額に押し当てた。
恐怖。
400年もの間、忘れていた感情。
自分の命が尽きることなど恐れていなかった。だが、この小さな「器」が壊れることが、今の彼女には何よりも恐ろしかった。
「……マザー。……もう、いいんです」
ウェンディが、蚊の鳴くような声で囁いた。
焦点の合わない瞳で、アイリーンの顔を探すように彷徨う。
「私……十分、幸せでした……。マザーともう一度会えて……一緒にいられて……」
「何を言っているの!? バカなことを言わないで!」
アイリーンが声を荒らげる。
「お前がいなくなったら、私はどうなるの!? 誰が私を愛してくれるの!?」
「ごめんなさい……。私……もう、眠いんです……」
ウェンディの瞼が重く落ちていく。
彼女の中の「寿命」というロウソクは、燃え尽きる寸前だった。
ナツたちとの戦いで、無理やり強化魔法を使った代償が、ここで一気にツケとして回ってきたのだ。
「ダメよ! 寝ちゃダメ! ウェンディ!!」
アイリーンがウェンディの体を揺する。
反応がない。
呼吸が浅い。
心臓の鼓動が、今にも止まりそうなほど弱い。
「……あぁ……あぁぁぁ……ッ!」
アイリーンは頭を抱え、獣のような悲鳴を上げた。
賢竜の知識を持ってしても、「寿命の尽きた人間」を治す術はない。
器が壊れかけているのだ。どれだけ水を注いでも、底から漏れ出していくだけ。
「……足りないのね」
アイリーンが顔を上げた。
その瞳孔が開いている。
極限の焦燥と恐怖が、彼女の理性を焼き切った。
「命が足りないのなら……足せばいい」
彼女は窓の外を見た。
ここから数キロ先には、港町がある。
数千人の人間が住む、活気ある街。
「数百人程度では、お前の命を繋ぎ止められなかった。……なら」
アイリーンが立ち上がる。
その背中から、禍々しい緋色のオーラが噴き出し、遺跡の天井を突き破った。
「数千人……いや、数万人でもいい。国一つ滅ぼしてでも、お前の器を満たしてあげる」
それは母親の愛ではない。
孤独を恐れる魔女の、狂気じみた執着。
「待っていて、ウェンディ。……すぐに『特効薬』を持ってくるわ」
アイリーンは、死にかけている娘の額にキスをした。
その唇は震えていた。
「誰にも渡さない。お前は私だけのもの。……死神にだって、渡さないんだから……ッ!」
ドォォォォォンッ!!
アイリーンが空へと飛び出した。
向かう先は港町。
ウェンディ一人の命を永らえさせるためだけに、彼女は無辜(むこ)の民を虐殺しに行く。
部屋に残されたのは、静寂と、浅い呼吸を繰り返す少女だけ。
その目尻から、一筋の涙が伝い落ちた。
止めてほしかったのか、それとも感謝しているのか。
今の彼女には、それを口にする力さえ残されていなかった。
次回、「第10話:緋色の虐殺、滅竜の咆哮」