フィオーレ王国西部の港町。
夕暮れ時、活気に満ちていた街が、一瞬にして凍りついた。
空が、燃えている。
いや、夕焼けではない。ドロリとした粘着質な緋色の魔力が、空を覆い尽くしていたのだ。
「な、なんだあれは!?」
「空が……落ちてくるぞ!」
人々が逃げ惑う。
その上空に、一人の女が浮いていた。
アイリーン・ベルセリオン。
かつての気品ある美貌は形を潜め、髪を振り乱し、眼球が血走った姿は、伝説の魔女というより、子を奪われかけた鬼女のようだった。
「足りない……。まだ足りない……」
アイリーンはブツブツと呟きながら、眼下の街を見下ろした。
そこにある数万の「命の灯火」。
これら全てを搾り取れば、あの子(ウェンディ)の器を満たせるはずだ。
「さあ、寄越しなさい。……お前たちの無価値な命を、私の娘のために!」
「『広域極限付加(ワールド・エンチャント)・生命剥奪(ライフ・セーバー)』!!」
ズオォォォォォォッ!!
空から無数の緋色の触手が降り注ぐ。
それは物理的な攻撃ではない。触れた者から強制的に魂を引き剥がす、死神の鎌。
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
「助けてくれぇぇぇ!」
逃げ遅れた人々が次々と倒れ、その体から青白い光が空へと吸い上げられていく。
「ふふっ……あはははは! そうよ! もっと! もっと輝きなさい!」
アイリーンが狂ったように笑う。
集めた光を巨大な魔水晶へと圧縮していく。
その時。
「『炎竜王の……咆哮ォォォォォォォッ!!!!!』」
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!!
横合いから放たれた極大の炎が、降り注ぐ緋色の触手を焼き払った。
熱波が街を包み、死の魔法を強制的に霧散させる。
「チッ……! またハエどもか……!」
アイリーンが忌々しげに睨みつける。
煙の中から現れたのは、ナツ・ドラグニルをはじめとする妖精の尻尾(フェアリーテイル)の主力メンバーたちだった。
「アイリーン!! テメェ何考えてんだ!!」
ナツが吼える。
「関係ねえ人たちを巻き込むな! ウェンディがこんなこと望むと思ってんのか!」
「うるさいッ!!」
アイリーンが絶叫した。
その声のあまりの悲痛さに、ナツたちが息を呑む。
「あの子が……ウェンディが死にそうなのよ!!」
「え……?」
エルザが目を見開く。
「寿命が尽きかけているの! 薬も魔法も効かない! 器が壊れかけているのよ!」
アイリーンは髪を掻きむしりながら叫んだ。
「お前たちに何がわかる! あの子が死んだら……私はまた一人になる! 400年の孤独に戻る! そんなの耐えられるわけないでしょう!?」
「だからって……街の人たちを殺していい理由にはならねえ!」
グレイが氷の剣を構える。
「なるわよ!!」
アイリーンが杖を振り下ろす。
「あの子一人の命は、この世界の全人類よりも重い! ……邪魔をするなら、お前たちも養分にしてやる!」
ドォォンッ!!
アイリーンの背後から、竜の幻影が立ち昇る。
賢竜の力が暴走している。
「来るぞ! 構えろ!」
エルザが叫ぶ。
「母上……! あなたを止める! それがウェンディのためでもある!」
激突。
ナツの炎、グレイの氷、エルザの剣が、アイリーンの緋色の閃光とぶつかり合う。
しかし、アイリーンの力は以前よりも増大していた。
「娘を救いたい」という狂気じみた執着が、彼女の魔力を底なしに増幅させているのだ。
一方、数キロ離れた隠れ家。
遺跡のベッドの上で、ウェンディは浅い呼吸を繰り返していた。
全身の感覚がない。
視界は闇に閉ざされている。
ドォォォォン……。
遠くから響く地響き。
そして、風に乗って微かに聞こえる、懐かしい声と、愛する人の悲鳴。
(……ナツ……さん……)
(……マザー……)
ウェンディの指先がピクリと動いた。
わかっていた。
マザーが何をしているのか。
自分のために、また罪を重ねようとしていることを。
(……やめて……)
ウェンディの目から涙が流れた。
死にたくない。マザーと一緒にいたい。
でも、そのためにマザーが「怪物」になってしまうのは嫌だった。
(私が……始めたこと……)
(私が……終わらせなきゃ……)
ウェンディは、動かない体に最後の命令を下した。
削りきった寿命の残り滓。
その最後の最後、魂の底にある残り火を燃やす。
「……う……ぁ……」
ウェンディがベッドから転がり落ちた。
這いつくばる。
床を爪で掻く。
向かう先は、窓の外。緋色に染まる空の下。
「待ってて……マザー……」
少女は這い進む。
自身の命の終わりと、愛する母の暴走を止めるために。
次回、「第11話:砕ける器、最後の付加術」