港町は、緋色の地獄と化していた。
ドゴォォォォォンッ!!
アイリーンの杖から放たれた極大魔法が、ナツとグレイを吹き飛ばす。
「ぐあぁぁぁッ!?」
「くそっ……! 化け物かよ……!」
二人が瓦礫の山に突っ込む。
エルザが「紅桜」を構えて切り込むが、アイリーンは素手でその刃を受け止めた。
「邪魔だと言ったはずよ、エルザ」
バキッ。
刀身がへし折られる。
「がはっ……!」
エルザの腹部にアイリーンの蹴りが突き刺さり、彼女は数メートル先へ弾き飛ばされた。
「弱い。弱すぎるわ」
アイリーンは鼻で笑うと、宙に浮かぶ巨大な魔水晶(ラクリマ)を見上げた。
そこには、街の人々から強制的に吸い上げた数千人分の「命の光」が渦巻いている。
「さあ、これであの子は助かる。……ウェンディ、今行くわ」
アイリーンが踵を返そうとした、その時だった。
ザッ……ザッ……。
戦場に似つかわしくない、何かを引きずるような音が響いた。
ナツが、エルザが、そしてアイリーンが視線を向ける。
燃え盛る瓦礫の向こうから、一人の少女が這い出てきた。
右半身の髪は雪のように白く、肌は土気色。
着ている軍服はボロボロで、口からは絶え間なく血が溢れている。
「……マ……ザー……」
ウェンディだった。
立つことすらできない彼女は、泥だらけになりながら、それでもアイリーンの元へと這い進んでいた。
「『分離付加(エンチャント)・術式解除』」
ウェンディが振り絞った最後の魔力が、上空の巨大な魔法陣を食い破った。
パリンッ……!!
ガラスが割れるような音と共に、アイリーンが展開していた「生命摘出」の魔法が霧散する。
集められかけていた数千の命の光が、雪のように街へと還っていく。
「あ……」
アイリーンが呆然と空を見上げた。
娘を救うはずだった薬が、娘自身の手によって拒絶され、消えていく。
その直後。
ドサッ。
糸が切れたように、ウェンディの体が崩れ落ちた。
白い髪が血と泥に塗れ、地面に広がる。
「ウェンディッ!!」
アイリーンは絶叫し、ナツたちを無視して駆け寄った。
地面に倒れた小さな体を抱き起こす。
軽い。恐ろしいほどに軽い。そして冷たい。
さっきまで残っていた命が、今は風前の灯火となって消えかけている。
「なぜ……なぜこんなことをしたの!!」
アイリーンはウェンディの肩を揺さぶった。
「あれがあれば助かったのに! お前は生きられたのに! なぜ自ら死を選ぶの!?」
「……ケホッ……」
ウェンディがうっすらと目を開けた。
その瞳は濁り、もうアイリーンの顔もはっきりとは見えていないようだった。
「……だって……マザーが……悲しい顔を……していたから……」
「悲しい顔……?」
アイリーンが息を呑む。
「私は笑っていたわ! お前を救える喜びで!」
「ううん……泣いていました……。心が……泣いていました……」
ウェンディは、血に濡れた手でアイリーンの頬に触れようとしたが、力がなくて持ち上がらない。
アイリーンは慌ててその手を掴み、自分の頬に押し当てた。
「バカな子……。本当にバカな子……」
アイリーンの目から大粒の涙が溢れ出し、ウェンディの顔に落ちる。
「私が欲しかったのは、お前の命だけよ。……他人の命なんてどうでもよかった。お前さえいれば……!」
「……マザー」
ウェンディが、蚊の鳴くような声で呼んだ。
「……お願い……あります……」
「何? 何でも言って! 今すぐ魔法で……!」
「……抱き……締めて……ください……」
ウェンディの願いは、魔法でも、治療でもなかった。
ただ、母親の温もり。
「……っ!!」
アイリーンは言葉にならず、ウェンディを力いっぱい抱きしめた。
骨が軋むほど強く。
自分の体温を、命を、全て分け与えるかのように。
「あったかい……」
ウェンディが、アイリーンの胸の中で安堵の息を漏らす。
その口元が、微かに微笑んだ。
「……私ね……ずっと、探していたんです……。こうして……安心して眠れる……場所を……」
彼女の意識が遠のいていく。
死の淵。
けれど、そこに恐怖はなかった。
大好きな人の腕の中。世界で一番安全な「揺り籠」。
「……最後に……魔法を……かけさせて……」
ウェンディの額が、アイリーンの胸に触れる。
残された最後の魂。
それを燃やして紡ぐ、永遠の絆の付加術。
「『人格付加(エンチャント)・ウェンディ』」
フワッ……。
淡い蒼色の光がウェンディから抜け出し、アイリーンの体へと溶け込んでいく。
「……これで……ずっと……一緒……」
ウェンディの瞼が重く閉じていく。
彼女は最後の力を振り絞り、今まで呼び続けてきた「マザー」という名を、あえて変えた。
賢竜としてではなく。
師匠としてでもなく。
ただ、自分を愛してくれた一人の「親」への呼び名へ。
「……大好き……お母さん……」
ガクッ。
抱きしめられた腕の中で、ウェンディの力が完全に抜けた。
心臓の音が止まる。
呼吸が止まる。
天空の巫女の命は、母の胸の中で、穏やかな眠りについた。
港町に風が吹く。
静寂が支配する戦場。
「……ウェンディ……?」
アイリーンは、動かなくなった娘を抱きしめたまま、名前を呼んだ。
返事はない。
けれど、自分の魂の奥底に、確かに「温かいもの」が宿ったのを感じた。
『お母さん』
最期の言葉が、呪いのように、祝福のように、アイリーンの心に焼き付いて離れない。
「あ……あぁ……」
アイリーンは空を仰いだ。
緋色の空はもうない。あるのは、星が見え始めた群青の夜空。
「うああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!」
獣の咆哮のような慟哭が、夜空を引き裂いた。
ナツたちも、武器を下ろし、ただ涙を流してその光景を見つめるしかなかった。
愛ゆえに狂い、愛ゆえに散った母娘の物語。
その幕は、悲劇的な死と、永遠の結合によって下ろされた。
次回、「エピローグ:緋色の双翼、一対の鼓動」