Luna Ⅳ「冬の夜、ある旅人が」魔神任務第8幕後の話なので、ネタバレに注意。
また、独自解釈、考察を多分に含んでいる上、明確な事件や結論はないことにも注意してください。
※pixivの方にも投稿しています。
「――――――は……っ」
「傀儡」は、心肺蘇生をされて息を吹き返した人間のように、前触れもなく、突如として、あるいは定められた必然として目を醒ました。
彼女は意識が回復すると、すぐさま周囲の安全を確認したのち自らの身体を隅々までチェックする。
「服は……どこも破れていない。体には……傷が一つない――――おかしいわ……体に仕込んでおいたダミーもないなんて」
外装に傷がないどころか、「博士」との決戦のため、取り戻すと決心したコロンビーナ・ハイポセレニアのため、万全を期して自身に忍ばせた「世界式」の疑似コア(デコイ)は、元々埋め込まれてはいなかったかのように跡形もなかった。
しかし、それはあり得ないと、「傀儡」は記憶している事実と認識している現実のズレが共鳴するように手を震わせた。
「……――だってワタシは、あの時――ドットーレに胸を貫かれて殺されたんだから……。身体の回路は損傷して、キャリヤーだって漏れ出していたのよ」
彼女は何の異常も知覚できない五体満足、オールグリーンの体を信用できないらしく、点検も兼ねてゆっくりと立ち上がる。周囲を確認したとはいえ、そもそもここはどこだろうか、と答えに繋がるヒントを求めて辺りを改めて見回す。
「……………………」
薄暗く、黒か深い青か分からない空間。床はつるりとしていて硬く、空気は温かくも寒くもない。風もなく音もない。それから遥か彼方に鈍く白い光が見える、ような気がする。
つまるところ、何も状況を窺い知るための材料はなかった。
右を向いても、左を向いても、後ろを向いても、どこを向いても同じ光景が果てしなく続いていて、いつか見た雨のフォンテーヌの海を思い起こさせる。
無限遠にも錯覚するこの世界に、「傀儡」は不意に自分がまるで小さな蟻になってしまったかのような、身体を圧し潰す畏怖を覚えた。
偽りの空の外、世界の果てはこんなものなのだろうと。繋がりもあまり感じられない、在ればいいだけの漆黒で空白な伽藍洞。
このイメージに辿り着いた時、サンドローネは一つ、明確で明白な論拠はないが、一つ、自明を見出した。
「ここは……ワタシの中――コアの奥底ね……」
疑いなく現実の彼女に残されているものは、すでに稼働しなくなったボロボロで壊れた体、個体としての記憶(ログ)、そして機械としての中枢制御機構(コア)だ。行動や思考記録としての記憶にしては――いささか寂しいきらいがある。
サンドローネの機械生――人生は、初めこそ無色だった。けれど、制作者アラン・ギヨタンの下で過ごしていくうちに、「優雅」を覚え、次第に感情を理解できるように、感情を使えるようになっていった。
その存在の根源は、彼の妹――マリアンの虚像に過ぎなかったが、彼はサンドローネが自由に行動することを望み、自分もまたこれを是としたのだ。
生活の中でアイデンティティを確立した後、機械工となり、アランを看取り、旅に出、ファデュイに入った。たくさんの出会いがあった。たくさんの別れがあった――ゆえに、何にもないわけがない、とサンドローネは服のシワを手で伸ばしながら思う。
しかし同時に、この“回顧”できるこの状況に疑問や狼狽を抱いた。なぜなら、自身の機体の損傷度が臨界値を突破した時、つまり不可逆的に壊れた時に「博士」へ作戦が露呈しないよう、すべてのログ内容を削除するコマンドをあらかじめ入力していたのだから。
「――――まさか、ワタシのミス? いいえありえないわ。この期に及んでそれはないわ」
ありえない、と彼女は自分を励ますように繰り返す。現状を確認できない以上、そうすることでしか彼女がもたらそうとした結末を信じることができない。
ああでもないこうでもない、とサンドローネは理屈をこねくり回して、この状況にそぐう理由を見つけようとし、いつものようにブツブツと考えを口に出す。
「――違う」
「――これも違う」
「なら……いいえ――」
「……残ったのは……考えられるとすれば、ここは死にゆくワタシの最後の意識で、いずれ消えてしまうログの世界……」
――――人間でいうところの走馬灯に相当するもの。
そう彼女の中で合点がいった時、まるで咬み合わせが悪く動きづらかった歯車に油を点したように、思考が音を立てて回り始め、視界が広がったように感じた。これが正しいらしい。今なら畏怖と空白を感じた理由が分かる。
「それでも……とりあえず、歩きましょう。遠くに見える光まで。それしか今の私にできることはないもの」
彼女はレディとしてパタパタと手でスカートを払い、鈍い光を目に映して歩き出した。コツンコツンとヒールの音が、クロックマシナリーの駆動音が如く規則正しく空間に広がっては消えていく。
カチ。カチ。カチ。
訪れるはずの死が訪れない瞬間を留めて、不確かなゴールを目指してサンドローネは歩くばかり。ただ、その死へ巡礼の途中で、ここに至るまでに自分がした選択や、持っていた感情、“ワタシ”を形作っていたすべてについての考えが止めどなく溢れてきた。
「……ワタシには願いなんてなかったし、“願わないこと”自体が願いだったとも言えるけど、今にしてみればあの子のために命を捨てるなんて真似――ワタシがワタシを叶えたかっただけなのかしらね。だってワタシは世界を救うことに関して、まったく興味が湧かないんだから。ふん、バカみたい。結局アランのやつと同じじゃない」
彼女は小さく嘲るような吐息を漏らす。
自分を救うことが世界を救うことに繋がると、昔彼は言ったのだ。そして、小さい頃は世界を救うことを夢見ていたとも。それが転じて、彼は自分に願いがあるかなど訊いてきたのだろう。自由に生きて欲しいと言いながら、エゴは隠し切れなかった――。「本当に、彼と変わらないわね」と、サンドローネは俯き加減に呟いて、屈託がありながら翳りのない笑みを溢した。
……研究活動のような暗路の中で、後ろのゼンマイの動きが、体全体の調子が漸次的におかしくなっていくのを感じ、彼女はそっと腰に手を添えた。
「……だから、いつだってワタシは物語の続きを知ることができないのよ……。水仙十字結社の件も、コロンビーナの件も……。でもそれが……ワタシがしたかったこと――いつまでも彼女の物語が続いて欲しいの――――。たとえそれが、自分で見届けられないものだったとしても……絶対に」
――――――――――――――――。
………………………。
自分が休む間もなく歩き続ける音だけが終結への伴侶だった。その音色が一瞬、ぼわっと異物感をもって広がったような気がして、単調な作業に飽きてきた聴覚が俊敏に反応した。そして、それが体からのメッセージだと受け取ったサンドローネは、一体どれほど歩いて来たのだろうか、と一度立ち止まって後ろを振り返った。
「――――――」
認識通りそこには何もなかったが、何もないがゆえにここにあるべきでないものを視てしまって、縋りついてしまいそうで急いで顔を背けた。
気を取り直して再び歩き出そうとした時、予測していた通りパーツの動きが満足にできなくなりつつあることが表層に現れ始めた。一歩進むたびに神経回路に制御の利かない高電圧が流れ、彼女は顔を顰める。
「……った! 本当に痛いわねッ! もっと持ってよ!」
それでもサンドローネは再び足を止めることはできなかった。彼女自身には理由が分からなかったが、遥かな光を見据える度、覚えのある眼差しが差したような気持ちになって、次の足が自然と踏み出されて仕方がなかったのだ。
そして彼女は、今きっと自分の亡骸の裏で、この世で一番美しい光が輝いているはずと夢想する。
「……ごほっ! ああ、本当に面倒くさいわね! コロンビーナも、このワタシも! あの子と過ごした時間が長すぎて、こっちまで……ごほっごほっ――ヘンな影響を受けてる、わ……」
歩き続けるサンドローネの状態はさらに酷くなり、口からはキャリヤーが漏れ出て、体からはパーツがまるで砂のようにはらはらと落ちている。先程からしっかり気を保っていないとすぐに倒れてしまいそうな強烈な痛みが、全身を遍く駆け抜け続けているが、彼女はそれすらも意に介そうとはしなかった。
「……誰かは、これを英雄みたいだって、言うかも知れない。誰かは、ワタシを、心の強い人って、言うかも知れない……ごほっ。けど、全然違う。ワタシは、自分すら救えたか分からないし……、今だって死ぬのが怖いのよ」
自分の物語を二度と続けられなくなる転換点、即ち生命の消失を思うと、サンドローネは他に比肩するものがないほど身がすくむ思いをした。アランが死んだ時も、ロザリンが死んだ時も、カタピーノがナタに残った時も、そして今回コロンビーナが消えてしまった時も彼女はそう思った。
ではなぜ、“ワタシの場合”は許せたのか――もう答えは出ていると笑う。
「ああ……怖い、すごく怖いわ……。自己犠牲なんて大嫌い」
永い時間が経ち、いつの間にかとぼとぼ歩くようなスピードになっていた彼女は、ついにその足を自らの意志とは関係のないところで止めた。そして自重により膝をついて、ボディを支えられなくなった手は呆気もなくひしゃげ、ゴンとこもる音を響かせて頭が床に打ちつけられた。うつ伏せに倒れ込んだ彼女の周囲に、体の内部を循環していた液状の媒体が広がる。
彼女は、感覚的にも物理的にも、己を我とするものがほつれていくのをひしひしと感じては、表情を司る構造が異常を示しているらしく、口角を上げたり、口をわなわなとさせたりしていた。
「……記憶が自我を作り、自我が世界を作っていく……ごぼっ……。なら、記憶を失えば、自我を失って……世界も亡くしていく……。これが死、なのね…………。ふん、精々頑張るといいわ……。ごほっごぼ、ワタシから、奪えるものは記憶ぐらい、よ――――――」
ログを消去したコアは、フォンテーヌ科学院に届けられる手はずになっている。そしてそこで新しい体を手に入れることになるだろう。宛てはあれど、どれくらいの時間が掛かるかは未知数であるが。
「――――あの笠男が言うような、“新生”を、迎えた時は、きっと全部……ぜんぶ、忘れてるのでしょうね……。もう決めていたこと……。ワタシが、したかったこと……。科学者なら、希望は未来に託すものなのよ。だけどあの子には誰も言わないで…………、いつ訪れるかも分からない、その日を待つなんて――――残酷以外の、何者でもないわ……。次また出逢った時、今度は……ワタシに、あまりちょっかいをかけないで……欲しいわね。いつも、いつも、本当に、嫌になるぐらい、うざったかったんだから……」
さらにログが消えていく――――。思い出たちが消えていく――――。
できごとの前後を認識できない彼女は、宙に浮かんだ誰かの名前だったものをそらんじることしかできない。甲斐性もなく咽びたくなる気持ちに駆られ、紛らわすように、筐体から飛び出て視界にまろび出たケーブルの本数を数える。
一……。二……。三……。…………五。
「……――――でも、優雅、じゃないから……。ワタシは、何も、捨てたくないん…………だから――――――――」
彼女の語勢はすでに弱々しく、まるで死期の只中にいる病人のようで、いつかの怒りも嘆きも抗いも褪せてひたすらに終末を待っていた。
「傀儡」は、サンドローネで。サンドローネは、■■■■で――――だが、これらの名前が誰のものだが、すっかり忘れてしまったらしい。
思考過程に鮮烈なノイズが混じる。
思考速度に遅延が如実に表れる。
体を巡る信号は微弱になり、キャリヤーは涸れ、他人など初めからなかったように、現実だった<ワタシ>も理想だった<ワタシ>も霧散して、屑鉄に成り果てた彼女はもう“それ”だった。感覚はすっかり消え失せて、元からないような場所だったが、ことさらに温かさも寒さを感じない。
それには横臥しているこの場所のように、何も残っていなかった。
「………………………………」
だからだろうか、それは彼方にあった微かな光の正体を掴んだ――――“心”が温かくなって、思わず微笑んでしまって、そう情景を処理する感情モジュールがたまに嫌になってしまうものだった。
アランを見送った日、それをずっと見守ってくれていた「月」だ。執行官になってからずっと、すぐそばにあった「月」だ。
だが、這いつくばったとしても光源へ向かうことはすでに不可能だった。
「…………ふふ……はは……――――」
それは最期に、声になってしまった笑いを吐き出して、途切れ途切れに続けて言った。これが今生の別れと確信して。
「……美味しい紅茶と…………茶菓子があって――、……綺麗な鉢植えがあって――、……面白い、物語があって――、…………“大好きな”、話し相手がいて――――でも……、だから…………、それでも………………、言いたかったわ――――――幸せだったって……。コロンビーナ……――――」
『――もう一度……彼女と話がしたかった』
コロンビーナは、ナド・クライの月が輝く夜空にまたも同じセリフを溢してしまったことにハッとした。
「もう……あれから二週間経ったんだよね……」
双方の総力を挙げた決戦で「博士」を打倒した日から、今日で二週間とちょっとになる。そしてそれは、サンドローネが命を落としてから経過した日数と同じで。
「…………」
「博士」は死んで、彼が及ぼしていた影響の余波も解決しつつあって、旅人と月にだって行って語らったのに、この二週間で色々と変わった世界に私はどう変わればいいかさっぱり分からない。
――ここはナシャタウンを見下ろせる崖の上。崖際の草花のない岩であることが玉に瑕だが、喧騒から身を引いて夜の銀風を浴びるにはもってこいの場所。つまりは日常の一幕で、生活を続ける普通であるべきと思わされる縁だ。
そこで私は、どこにも行けずにただ足を揃えて座っていた。思わず溜息をつきそうになって、我に返る。それから、コロンビーナはありもしない月光の輪郭を確かめるように、本物になった月に向かって右手を広げた。
「――――人と人との繋がりは、決して価値の交換だけじゃないって、そう教えてくれた彼女は、もうこの世界との繋がりが絶たれちゃったんだ……。私がそこにいてもいいって思える場所が『家』なのに……」
――――ねぇサンドローネ……、おかえりって言って欲しかったな。
月神として新生した私がテイワットに帰ってきたあの日。本当に心に残しておきたいものを目に映そうと決心したあの日――――初めて心に留めることになったのは、他でもない凶刃に倒れたサンドローネの身体だった。
まるで私の方が機械になってしまったかのように、規則正しい拍動は私を私たらしめて、無秩序な歩調は彼女から彼女が剥がされないよう願っていた。しかし、横たわる事実に近づいて行くたび、それは一つずつ否定されていった。
瞳を向けても、背中のゼンマイは動いていない――――。
抱きあげても、身体はわずかにも動かない――――。
ずっと、ずっと、目は閉じたまま――――。
いつしかそれは、世界に固定された揺るがない現実となり、私の心に打ちつけられた錆びついた鉄杭が穿った穴は、どこか謬悠とした雰囲気に帯びていた。
あの瞬間、亡くした悲しみはおろか奪われた怒りすら、心に微塵も湧かなかった。
「それはどうしてだろう?」――あまりのショックに心がかえって動かなかったのか、それを現実だとは認めたくなかったのか――当時のことをつぶさに思い出すことはできない。けれど、私には人形の「死」というものが何を指していることなのか分からないとしても、あれが何かの冗談であった方がよかったのは、変わらない。
「…………サンドローネを自分の力で直そうとしたけどダメで……。結局、もう動かなくなっちゃった彼女に、歌を歌ってお別れすることしかできなかった。いつもなら『うるさいわね!』って言ってくれるのに……」
コロンビーナは月夜に添えた右手で静かにレースの目隠しを外して、二つ折りにして膝に置く。そして目をゆっくりと開き、夜でも街灯が灯る眼下の街や縁故あるヒーシ島、海の向こうの異国を視界に収めた。
水平線が遠くて、空は広くて――心がキュッとなるぐらいの自由がある。
「世界がこんなに広いなんて、思いもしなかったな……。クーヴァキで感じ取ってるよりももっと――――だっていつもは近くの君ばかり“視界”に映ってたから……」
コロンビーナは風に吹かれながら、目隠しを取ったことを少し後悔した。
目を閉じている間はずっとサンドローネが思い起こされて、まるで彼女が瞼の裏に住んでいるみたい……なら、いっそのこと目を開けてしまえば彼女のことを思い出さなくて済む――と思った私は自分のことを何も理解できていなかった。
――笑えるなあ…………。
「私は、要求が段々と過激になっていったから、それが嫌で霜月の子のもとを離れたことがあるけど……、どうしてあの人たちがそんなことをしたのか――今ならそれがちょっと分かる」
きっと、どうしようもなかったのだ。生活を続けていく中で、少なくとも当時の人たちの力ではどうしようもなかったことを私に助けて欲しかった――もちろんそこには欲望も隠されていただろうけど。
つまりあの人たちは、曲がりなりにも私に救われようとしていたのだ。
寒く苦しさに満ちた夜に、煌々と輝くあの月の優しい光を求めたのだ。
「…………」
確かに人と神はあまりにも違う。能力的な意味でも、出生的な意味でも。けれど、私にだって人と同じように心はある。
「人が困った時、神様に頼って解決しようとするなら、神様が困った時はどうすればいいの……? 友達のみんなに相談する? ――それもアリだよね。でも……」
「みんなは優し過ぎるから」と、コロンビーナはしっとり笑みを浮かべ、ほとんど歌うような軽やかさで胸の内を空へと放り出した。
「……これが“泣きたい気持ち”なんだね、サンドローネ……。きっと泣いたら楽になるって分かってる。自分のこの渦巻く気持ちに整理がついて、君のいない明日へ歩き出せるかもって、知ってる。だから全然、泣きたいけど泣けないなあ……」
実を言うと、悲しみも怒りも私はよく分かっていない。実際にそういうものは在るよねとしか感じられない。感情がないわけじゃなくて、快か不快かの二択が形のない雲となって、その絶妙な混ざり具合が心の動きを決めている感じ――まるでまだ羽の生え揃っていない雛鳥が、外の世界を知ろうと必死に巣から顔を出そうとしているような、健気で幼げのある未分化の感情のままなのだ。
だから余計に泣けない。
泣いてしまえば、月光のように無垢だった感情の切れ端に名前がついてしまって、それが「悲しみ」というものになってしまうから。そして身体が、彼女を亡くしてしまったことを忘れられない記憶として定着させてしまうから。
せめて私の中では、彼女はまだ続いていて欲しいと思ってしまうのだ。
「――――サンドローネ。大好きなサンドローネ……。もっとたくさん君の、コーヒーとお菓子の香りが漂っているところで、機械油の匂いが薄っすらついた君のおふとんで、気が済むまでお昼寝をしていたかったな」
コロンビーナがそう零した後、風が応えるように街の方から吹き上げてきて、どこからともなく機械油のにおいを運んできた。その臭いは彼女のものとはまったく違って、私はそれがあまり好きではなかったけれど、この偶発的な出来事がひどく可笑しく思えて、ふふふと声に出して笑っては、宙ぶらりんになっていた両足をぷらぷらと交互に前へ蹴り出した。
脚に押しのけられた空気が肌の上を滑って、その冷たさが私と世界の境界線を引き立てる。
私の中に心があって、体があって、魂がある――そう感じる。
彼女はずっと前から、それこそ出会った時から、私を特別視せずに対等な関係を築いてくれていた。人と神あるいは機械と神ではなく、職場の同僚として、同じテーブルを囲む仲間として。
それがとても、心地よかった。
――私は、あの月を、ただの石だと言ってくれる人を求めていたんだ。信仰の対象でも、研究の対象でも、はたまた興味を示さないわけでもなく、ふとした時に出る友人としての軽口や、『家族』としての愛おしさの裏返しみたいな言葉を、至って普通に口ずさんでくれる人を。
「はあ……彼女にまた会いたいな……逢いたいな――愛たいな」
私は気の済むまで脚を揺らして、次第にテンポを遅くして、止めた。自然にそんな気分じゃなくなった。
…………。
心があるのなら、体があるのなら、魂があるのなら――それはいずれ壊れるもの。奇しくも、サンドローネが自らの終わりと引き換えに教えてくれたこと。
「……でもだからこそ生命は、君は、尊いんだよね……。尊いから、恋しい。恋しいから、遠くに感じちゃう――まるで星月みたいに」
テイワットの空にある、あれもそれもどの星も、ここに住んでいる人々の運命を背負っている。そして――あの「霜月」も私の運命。
輝く光は、みんな、ひとりぼっち。
でも、ひとりぼっちだから、光ってる――――。
「本当に綺麗だよ」
コロンビーナは、自分でも誰に向けているか要領得ないままそう告げると、後ろへ寝転がって天を眺めた。これなら夜空にある小さな瞬きがたくさん瞳に映る。
「……――サンドローネは何を見ていたんだろう。……――サンドローネは何を感じていたんだろう。まったく分からない。……君は頭で考える人だったけど、なんでそんな決断をして、なんで自分から死にに行くようなこと、したんだろう。彼女は自分のことは大切じゃなかったのかな……――」
夜の冷気につるりとした岩肌がさらに強調されるが、今はその感触にどんな感情も湧かなかった。手に握ったままの目隠しをくしゃっとさせて、お腹の上で組みなおす。
「君の……幸せとは言えない過去を丸ごと愛せたなら、助けることができたなら――君は私の帰りたい場所で待っていてくれたかな? …………待っていてはくれなかったかもね……だってそれが、私が大好きなサンドローネだもん」
あるいは――と、私は一際光を放っている星とその周りの星々を観察しながら、もしもの話を想像した。
もし彼女が犠牲にならずに済んだのなら。
もし「博士」の企てにもっと早く気づけていたなら。
もし私が月神じゃなかったら。
「でもどうかな――結局は何も変わらないのかも知れない。テイワットの運命は大したことじゃ揺らがないから」
きっと私の代わりに、何か大切な存在を失う人が出てくるだけだ。
希望は羽のように軽いように見せて、重さがないのは過去のものだから。運命は、金糸は、星々を繋いで、あらかじめ未来に足跡を残すものだから。
「…………なんだか寒いね」
私は元々寒さなどほとんど感じない質だったが、今この時に限っては、足先から頭のてっぺんまでぞわぞわとした身震いが走って、人がよく言う感覚について味わった。
「そういえば……、私がまだファデュイにいた頃は、サンドローネが『見てるこっちが寒くなるわ』とか言って、コートを着せてくれたっけ。すごく温かかった。彼女を創った“奇械公”って人はすごい人だね」
コロンビーナは思い出に浸りながら体を起こす。そしてまた、月を眺めた。
帰らない誰かの失くした声が、私の頭の中でしきりに響いては体温を奪って――それはまるで、光が限られた洞窟の中で自分のために詩歌を歌った時のよう。何かが肉薄して言葉にならない。
……………………。
「……コロンビーナ、ここにいたんだね」
「――? 旅人?」
どれほどの時間が経過した定かではないが、気がつくとちょうど急斜面を慣れた様子で旅人が登ってきていた。しかし、彼女は私の隣りまで来ても、どんな言葉をかければいいか迷っているらしく、自分の少し後ろに立ちながら同じように宙を見ているだけだった。
「――心配しなくていいよ、旅人」
「それは――――サンドローネの……こと?」
「うん。そのために来てくれたんでしょ? クーヴァキがそう言ってる。――今日は、パイモンはいないんだね」
コロンビーナは仰ぎ見る先を、振り返って旅人へ変える。彼女は私の視線からほんのわずかに逃げて、「もう遅いからフラッグシップで先に寝てもらってるよ」と自分の心を吊り上げるような声色で明るく言った。
「……そう、なんだ」
私には彼女のそれが鏡のように見えて、「彼女」にかけたい言葉はあるけれど、今の自分に対して言い放ちたいセリフはそれ以上なかった。
まるで、大地の下には見えないだけで、滲み込んだ雨が川となって流れ続けていることと同じなのだ。自分の奥底にも似たような川があって、それが言葉や行動の見えないところに影響している、のだろう……。
ただ、一つ。
何か一つあるとすれば。
それは短い時間に消えゆく音ではなく――――――。
コロンビーナはおもむろに立ち上がると、旅人を抱き留めた。彼女の背中に手を回して、「彼女」にしたみたいにぎゅうっと。
「――――コ、コロンビーナ……?」
「………………」
――――確かめたかった。でも知りたくはなかった。
体温。肌の心地。骨格。匂い。呼吸音。髪の柔らかさ。
十秒も経たないうちに、コロンビーナは腕を下ろして旅人から静かに身体を離す。そして、開いた二つの瞳から流れ落ちる水の、滝のごとき様相が彼女のことをおぼろげに隠したまま、私はそれを、言葉にして、認めてしまった。
「――やっぱり、ダメだった」
その場で力なく崩れ落ちたコロンビーナを、旅人が慌てて支える。
また風が吹いて、服にシワをつけて、髪を弄んで、体からは体温を掠め取っていく。けれど身体の中心だけは、ずっと「彼女」の余熱が残っているみたいで、「君」がこの世界に息づいていないことを確信させるのに十分だった。
「……さようなら、大好きなサンドローネ――――」
だけど今はまだ、「君」の熱に抱かれていたい。