夜の街は、冬の冷気に押しつぶされるように沈黙していた。
ビルの谷間を歩く青年、佐伯湊(さえき・みなと)は、ポケットの中でスマホを握りしめたまま、どこへ向かうでもなく歩き続けていた。
思考の迷路は、今日も出口を見せてくれない。
論理で世界を理解しようとすればするほど、世界のほうが彼を拒むように歪んで見える。
「……全部、どうでもいいな」
呟きは白い息に紛れて消えた。
仕事は失敗続き、人間関係は噛み合わず、期待されるほどに自分の無能さが露呈する。
“考えすぎる頭”は、時に武器ではなく自傷用の刃物になる。
そのときだった。
足元の影が、揺れた。
街灯の光が乱れたのではない。
影そのものが、まるで生き物のように波打ったのだ。
湊は立ち止まり、眉をひそめる。
論理が追いつかない現象に、思考が一瞬だけ空白になる。
「……あら。やっと気づいたのね」
背後から、女の声がした。
柔らかく、どこか愉快そうで、しかし底知れない響きを持つ声。
振り返ると、そこに“裂け目”があった。
空間が縦に割れ、その隙間から紫色の瞳が覗いている。
そして、ゆっくりと姿を現したのは――
八雲紫。
着物の裾を揺らしながら、まるで散歩の途中で迷子を見つけたかのような微笑みを浮かべていた。
「あなた、境界が薄くなっているわ。心のほうも、世界のほうも」
湊は言葉を失った。
恐怖よりも先に、理解不能な現象への“分析欲”が頭を支配する。
「……あなたは、何者ですか」
「境界を操る妖怪。八雲紫よ。あなたの世界では“幻想”と呼ばれる存在かしら」
湊は笑うべきか迷った。
だが、目の前の裂け目も、彼女の存在も、どう見ても幻覚ではない。
紫は一歩近づき、湊の顔を覗き込む。
「あなた、今の世界に絶望しているでしょう。
でもね、絶望は境界を緩めるの。
“ここではないどこか”へ行きたいと願う心は、世界を越えるための鍵になるのよ」
湊の胸が、わずかに疼いた。
逃げたい。
消えたい。
どこでもいいから、今とは違う場所へ。
その弱さを、彼女は見透かしている。
「……もし、行けるなら。どこへ?」
紫は扇子を口元に当て、楽しげに目を細めた。
「幻想郷。
あなたのように、世界からこぼれ落ちた者たちが集う場所よ」
裂け目の向こうから、柔らかな風が吹き込んだ。
懐かしさと未知が混ざったような、不思議な香り。
湊は一歩踏み出す。
その瞬間、紫がそっと手を差し出した。
「ようこそ。あなたの“論理”が通じるかどうかは、行ってみてのお楽しみだけれど」
湊は迷わず、その手を取った。
世界が反転し、光と影が混ざり合う。
境界がほどけ、現実が遠ざかる。
そして――
青年は幻想郷へと落ちていった。
紫は微笑みながら、裂け目を閉じる。
「さて。あなたがどんな“物語”を紡ぐのか……楽しませてちょうだいね」