影の妖怪が霧散したあと、博麗神社には重い静寂が落ちていた。
湊は棒を握ったまま膝をつき、荒い呼吸を整えている。
霊夢は湊の肩に手を置き、心配そうに覗き込んだ。
「湊……本当に大丈夫?」
湊は頷く。
「はい……霊夢さんが隣にいてくれたから……」
霊夢は少しだけ頬を染め、視線を逸らした。
「……もう。そういうこと言わないの」
そのとき――
境内の空気が、ふっと揺れた。
風ではない。
温度でもない。
“境界”そのものが震えるような感覚。
霊夢が顔を上げる。
「……来たわね」
湊も立ち上がり、鳥居のほうを見つめる。
空間に裂け目が走り、紫色の瞳が覗いた。
八雲紫が、まるで散歩の途中で立ち寄ったかのように姿を現す。
「まあまあ。ずいぶん賑やかにしているじゃないの」
◆
紫は地面に残った黒い粒を扇子でつつき、興味深そうに言った。
「ふむ……形を持ち始めたのね。
これは、少し厄介だわ」
霊夢が眉をひそめる。
「紫。
あなた、何か知ってるんでしょう?」
紫は霊夢を見ず、黒い粒を指先でつまむ。
「知っているというより……感じている、かしら」
湊は思わず口を開く。
「紫さん……あれは、何なんですか。
妖怪……なんですよね?」
紫は湊のほうを向き、微笑む。
「ええ、妖怪よ。
でも――“普通の妖怪”ではないわ」
湊の胸がざわつく。
◆
紫は黒い粒を空に放り、指を鳴らす。
粒は霧のように消えた。
「湊。
あなたは影の妖怪を見て、何を感じた?」
湊は少し考え、答える。
「……怖かったです。
でも……どこか、悲しいような……
そんな感じがしました」
紫は満足そうに頷く。
「そう。
あなたは“気づいている”のね」
霊夢が紫を睨む。
「紫。回りくどい言い方はやめて。
湊を混乱させないで」
紫は扇子を閉じ、霊夢に向き直る。
「霊夢。
あなたも薄々気づいているでしょう?」
霊夢は沈黙した。
湊は不安そうに二人を見る。
「霊夢さん……?」
霊夢は湊の視線を受け止め、静かに言った。
「湊……あれは、ただの妖怪じゃないの。
“何かの影”なのよ」
湊は息を呑む。
紫が続ける。
「影はね、元になる“本体”があるの。
そして――
あの影は、あなたに強く反応していた」
湊の心臓が跳ねる。
「僕に……?」
紫は湊の胸にそっと指を向ける。
「ええ。
あなたの“心の隙間”に引き寄せられているのよ」
湊は震える声で問う。
「じゃあ……あれは……
僕のせいで……?」
霊夢がすぐに湊の肩を掴む。
「違うわ。
湊のせいじゃない。
ただ……あなたが“感じ取れる”だけ」
紫は微笑む。
「そう。
あなたは境界の揺れに敏感。
だからこそ――影はあなたに寄ってくる」
湊は拳を握りしめる。
「……じゃあ、僕が強くならないと……
霊夢さんを危険に巻き込むってことですか」
紫は首を横に振る。
「違うわ。
あなたが強くなるのは、霊夢のためじゃない」
湊は驚いて紫を見る。
紫は静かに言った。
「湊。
あなた自身が“影に飲まれないため”よ」
◆
紫は裂け目を開きながら、意味深に続ける。
「影はね……
“心の形”を映すの」
湊は息を呑む。
紫は微笑む。
「あなたがどんな心でいるかで、影は変わる。
だから――
湊。
あなたの心を守りなさい」
霊夢が叫ぶ。
「紫!
それ、どういう意味よ!」
紫は答えず、裂け目の向こうへ消える。
最後に、湊へだけ言葉を残した。
「影は、あなたを映す鏡。
そして――
あなたが選ぶ未来の形でもあるわ」
裂け目が閉じ、境内に静寂が戻る。
◆
湊は震える手で胸を押さえる。
「僕の……影……?」
霊夢は湊の手を取り、強く握る。
「湊。
紫の言葉を全部真に受けないで。
あなたはあなたよ。
影なんかに負けない」
湊は霊夢の手の温かさに、少しだけ呼吸が戻る。
「霊夢さん……
僕……強くなります。
影に飲まれないように」
霊夢は静かに頷いた。
「ええ。
私がついてるから」