影の妖怪が霧散した夜。
湊は霊夢に支えられながら縁側へ戻り、深く息を吐いた。
霊夢は湊の背中をさすり、静かに言う。
「湊……今日は本当に危なかったわ。
影があなたの心を模倣するなんて……」
湊は震える声で答える。
「……僕の心の弱さが、影を強くしてるんですか」
霊夢は首を横に振る。
「違う。
弱さは誰にでもある。
問題は……影が“あなたを狙っている理由”よ」
そのとき――
境内の空気が、ふっと揺れた。
霊夢が顔を上げる。
「……来たわね」
湊も立ち上がる。
空間に裂け目が走り、紫色の瞳が覗く。
八雲紫が、まるで散歩の途中で立ち寄ったかのように姿を現した。
「こんばんは、霊夢。
そして湊。
ずいぶん“影”と仲良くなっているようね」
霊夢が睨む。
「紫。
あなた、影の正体を知ってるんでしょう?」
紫は扇子を口元に当て、楽しげに目を細める。
「ええ。
もちろん知っているわ。
でも――
“知っていること”と“言うべきこと”は違うのよ」
◆
紫は境内に残った黒い残滓を拾い上げ、指先で転がす。
「影はね……
“本体”があるの」
湊は息を呑む。
霊夢が一歩前に出る。
「本体って……何よ」
紫は霊夢を見ず、湊のほうを向く。
「湊。
あなたは影を見て、何を感じた?」
湊は震える声で答える。
「……僕の心を……映しているようでした。
弱さとか……恐怖とか……」
紫は満足そうに頷く。
「そう。
影は“心の揺れ”を映す。
でもね――
映すだけじゃないの」
湊は息を呑む。
紫は黒い残滓を空に放り、指を鳴らす。
残滓は霧のように消えた。
「影は、揺れを“食べる”のよ」
霊夢が目を見開く。
「……食べる?」
紫は静かに頷く。
「ええ。
影は“心の揺れ”を糧にして成長する。
だから湊――
あなたが揺れれば揺れるほど、影は強くなる」
湊の胸が締めつけられる。
「じゃあ……僕が弱いから……影が……」
紫は首を横に振る。
「違うわ。
影があなたに寄ってくるのは、弱さのせいじゃない」
霊夢が眉をひそめる。
「じゃあ……何なのよ」
紫は湊の胸にそっと指を向ける。
「湊。
あなたの心には――
“境界”があるの」
湊は息を呑む。
霊夢も驚いたように紫を見る。
「境界……?」
紫は静かに続ける。
「心が壊れかけたとき、人は“境界”を持つの。
生と死の境界。
希望と絶望の境界。
自分と世界の境界。
そして――
その境界は、影にとって最高の餌になる」
湊の手が震える。
「……僕の心が……影を呼んでる……?」
紫は微笑む。
「呼んでいるというより……
“影があなたを選んだ”のよ」
◆
霊夢が紫に詰め寄る。
「紫。
影の“本体”って何なの。
湊に何をしようとしてるの」
紫は霊夢の問いに答えず、湊の目をまっすぐ見つめる。
「湊。
影の本体は――
“あなたの心の外側”にある」
湊は理解できず、眉を寄せる。
「心の……外側……?」
紫は扇子を閉じ、静かに言った。
「あなたが外の世界で抱えていた“絶望”。
その残滓が、幻想郷に落ちてきたのよ」
湊の心臓が強く脈打つ。
霊夢が息を呑む。
「……まさか……
湊の絶望が……妖怪になったっていうの?」
紫は微笑む。
「さあ、どうかしら。
でも――
影はあなたの“過去の痛み”を糧にしている。
それだけは確かよ」
湊は胸を押さえる。
影は、僕の絶望の残滓。
僕の心の外側に落ちた“影”。
紫は裂け目を開きながら、最後に言った。
「湊。
影を倒すには、力だけじゃ足りない。
あなたが“自分の心”と向き合わなければならない」
霊夢が叫ぶ。
「紫!
もっと説明しなさい!」
紫は振り返らず、裂け目の向こうへ消える。
「説明はしないわ。
でも――
湊が選ぶ未来を、私は楽しみにしている」
裂け目が閉じ、境内に静寂が戻る。
◆
湊は震える手で胸を押さえる。
「……僕の絶望が……影に……?」
霊夢は湊の手を取り、強く握る。
「湊。
紫の言葉を全部信じる必要はない。
でも……
あなたの心が影に狙われているのは事実よ」
湊は霊夢の手の温かさに、少しだけ呼吸を取り戻す。
「霊夢さん……
僕……どうすれば……」
霊夢は湊の手を胸に当て、静かに言った。
「湊。
あなたは一人じゃない。
影が何であろうと、私があなたを守る。
だから……
あなたも自分の心を守って」
湊は深く頷いた。
「……はい。
霊夢さんと一緒に……向き合います」