柔らかな風が頬を撫でた。
土と草の匂いが混ざった、どこか懐かしい空気。
佐伯湊はゆっくりと目を開けた。
視界に広がったのは、木造の天井。
古い建物特有の、乾いた木の香りが鼻をくすぐる。
「……ここは?」
起き上がると、畳の部屋だった。
見覚えのない空間。
だが、妙に落ち着く。
そのとき、襖がガラリと開いた。
「起きたのね。外来人」
湊は息を呑んだ。
そこに立っていたのは――
白と赤の巫女服をまとい、黒髪を揺らす少女。
博麗霊夢。
湊の混乱をよそに、霊夢は湯呑を片手に部屋へ入ってくる。
「八雲紫が連れてきたって聞いたわ。あの妖怪、また勝手なことして……」
霊夢はため息をつき、湯呑を湊の前に置いた。
「まあ、事情はあとで聞くとして。まずはお茶でも飲みなさい」
湊は戸惑いながら湯呑を手に取る。
温かさが指先に伝わり、少しだけ現実感が戻ってきた。
「……ここは、どこなんですか」
霊夢は湊をじっと見つめ、簡潔に答える。
「幻想郷。
あなたの世界から隔離された、妖怪と人間が共存する場所よ」
湊の頭が一瞬真っ白になる。
だが、霊夢の落ち着いた声が、逆に嘘をついていないことを示していた。
「信じられない、って顔ね。まあ普通そうよ」
霊夢は湊の正面に座り、湯呑を口に運ぶ。
「でも、あなたは境界を越えてきた。
理由があるはずよ。
紫が“拾った”外来人は、だいたい何か抱えてるもの」
湊は視線を落とした。
胸の奥に沈んでいた絶望が、じわりと浮かび上がる。
霊夢はそれを見て、少しだけ表情を和らげた。
「……言いたくないなら、無理に聞かないわ。
ただ、ここに来た以上、あなたはしばらく私の神社で保護することになる」
「保護……?」
「外来人は妖怪に狙われやすいの。
あなた、匂いで分かるくらい“弱ってる”し」
湊は言葉を失った。
霊夢は淡々としているが、言葉の端々に優しさが滲む。
「それに――」
霊夢は湊の目をまっすぐ見た。
「あなた、帰りたいの?
それとも、帰りたくないの?」
湊の心臓が跳ねた。
その問いは、彼自身がずっと避けてきたものだった。
答えられない沈黙が流れる。
霊夢は立ち上がり、襖の向こうへ向かう。
「いいわ。答えは急がなくていい。
外の世界で何があったか知らないけど、ここでは生きることを考えなさい」
そう言って、霊夢は振り返る。
「朝ごはん、食べられる?
食欲があるなら、少しは大丈夫ってことだから」
湊は小さく頷いた。
霊夢は満足げに微笑む。
「じゃあ、ついてきなさい。
幻想郷の朝は、案外悪くないわよ」
湊は立ち上がり、霊夢の後ろ姿を追った。
こうして――
絶望の果てにいた青年は、博麗神社で新しい朝を迎えることになった。