博麗神社の午後は、いつもより風が弱かった。
木々のざわめきが消えると、世界が一瞬だけ息を潜めたように感じられる。
湊は境内の掃除を終え、縁側で霊夢と並んで座っていた。
湯呑から立ち上る湯気が、まっすぐ空へ昇っていく。
「今日は静かですね」
湊がそう言うと、霊夢は湯呑を口に運びながら、少しだけ眉を寄せた。
「……静かすぎるのよ」
その声は、いつもの淡々とした調子とは違っていた。
湊は霊夢の横顔を見つめる。
「何か、あるんですか」
霊夢は答えず、境内の鳥居のほうへ視線を向けた。
その目は、遠くの何かを探るように細められている。
「湊。あなた、最近よく眠れてる?」
突然の問いに、湊は少し驚いた。
「ええ……霊夢さんのおかげで」
霊夢は小さく頷いたが、表情はどこか曇っていた。
「ならいいわ。
でもね、外来人って、時々“気づく”のよ。
私たちよりも早く、世界の変化に」
湊は息を呑む。
「……僕が、何か感じてるってことですか」
霊夢は湊のほうを向き、真っ直ぐに言った。
「あなた、最近……妙な夢を見てない?」
湊の心臓が跳ねた。
昨夜、湊は夢を見ていた。
――境界が揺れる夢。
――紫の瞳が、何かを告げようとしている夢。
――そして、霊夢の神社に“影”が落ちる夢。
だが湊は、それを言葉にできなかった。
夢の内容があまりに曖昧で、しかし妙に胸に残っていたから。
「……夢、というほどはっきりしていませんが……
何か、落ち着かない感じはあります」
霊夢は湊の答えに、ほんのわずかだけ目を細めた。
「やっぱりね。
外来人は、境界の揺れに敏感なのよ。
あなたがここに来た理由も、それと無関係じゃない」
湊は息を呑む。
霊夢は湯呑を置き、立ち上がった。
「湊。
もし何か“変だ”と思ったら、すぐに言いなさい。
どんな小さなことでもいい」
その声は、巫女としての厳しさと、湊を気遣う優しさが混ざっていた。
湊は立ち上がり、霊夢の背中を見つめる。
「霊夢さん……何か起きるんですか」
霊夢は振り返らず、ただ静かに答えた。
「まだ分からない。
でも、風が止まるときは、何かが動き出す前触れよ」
その言葉が、湊の胸に深く沈んだ。
◆
その夜、湊は眠りの中で、また“境界の揺れ”を感じた。
紫の声が、遠くから響く。
――「あなたは、まだ知らないだけよ」
――「でも、選ぶことになるわ。必ず」
そして、霊夢の神社に落ちる影が、昨日よりも濃くなっていた。
湊は目を覚まし、胸に手を当てる。
「……霊夢さんに、言うべきだろうか」
迷いが胸に渦巻く。
しかしその迷いこそが、事件の始まりを告げていた。