夕暮れの博麗神社は、昼の温かさを残しながらも、どこか張りつめた空気をまとっていた。
湊は境内の掃除を終え、箒を片付けようとしていたが、ふと背筋に冷たいものが走った。
――視線を感じる。
振り返っても誰もいない。
風も吹いていない。
だが、確かに“何か”がこちらを見ている。
「……霊夢さん?」
声をかけようとした瞬間、鳥居の向こうの影が揺れた。
人影ではない。
獣でもない。
形容しがたい“黒い塊”が、地面から滲み出るように姿を現した。
湊の喉がひゅっと鳴る。
「な、なんだ……」
影はゆらりと形を変え、まるで人の形を模倣するように細長く伸びていく。
輪郭は曖昧で、目も口もない。
ただ“こちらを見ている”という感覚だけが、圧倒的に伝わってくる。
湊は後ずさりし、足が縁側の段差に引っかかって倒れ込んだ。
その瞬間――
「湊、下がって!」
鋭い声が飛び、霊夢が境内に飛び出してきた。
袖が風を切り、札が指先に挟まれている。
「霊夢さん……あれ、何ですか……!」
「妖怪よ。でも普通のじゃない。形が不安定すぎる」
霊夢は湊の前に立ち、影の妖怪と向き合った。
その背中は小柄なのに、湊には巨大な壁のように見えた。
影は霊夢を見た途端、ぐにゃりと形を歪め、低い唸り声のような音を発した。
「……やっぱり。境界が揺れてるせいね」
霊夢は札を構え、静かに息を吸った。
「湊。絶対に動かないで」
その声は、湊の震えた心を一瞬で掴んだ。
恐怖で固まった身体が、霊夢の言葉だけで“守られている”と感じる。
影が跳ねるように飛びかかってきた。
霊夢は札を投げ、鋭い声で叫ぶ。
「――退けッ!」
札が光を放ち、影を弾き飛ばす。
影は地面に叩きつけられ、煙のように揺らめいた。
しかし、消えない。
「しつこいわね……!」
霊夢はもう一枚札を取り出し、影に向かって踏み込む。
湊はその姿を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
霊夢の動きは速く、迷いがない。
影の妖怪が形を変えて襲いかかっても、霊夢は一歩も引かず、淡々と札を叩き込む。
やがて影は耐えきれず、霧のように散って消えた。
境内に静寂が戻る。
霊夢は札を下ろし、深く息を吐いた。
「……大丈夫?」
湊は震える手で縁側を掴み、なんとか立ち上がった。
「だ、大丈夫……じゃないです……
でも……霊夢さんが……」
霊夢は湊の顔を見て、少しだけ表情を緩めた。
「怖かったでしょう。でも、あなたを守るのは私の仕事よ」
その言葉は、湊の胸に深く刺さった。
恐怖の中で、霊夢の背中だけが唯一の光だった。
「霊夢さん……僕……」
言葉が続かない。
霊夢は湊の肩にそっと手を置いた。
「湊。
あなたが感じていた“嫌な予感”……あれは本物よ。
境界が揺れてる。
そして、あなたはそれに気づける」
湊は息を呑む。
霊夢は真剣な目で続けた。
「だから――
これから起きることに、あなたも巻き込まれるかもしれない」
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばす。
湊の再生の物語は、静かに、しかし確実に“事件”へと踏み出していた。