Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】   作:ごすろじ

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▼第二十九話▶対価クレメンス。

 

 

 

馬車は朝露に濡れた土道を、規則正しい蹄の音を響かせながら進んでいく。

車窓から差し込む朝日は柔らかく、車内を穏やかな光で満たしていた。

 

 

しかし、そこに流れる空気は奇妙な緊張と安堵、そして困惑が入り混じった複雑なものだった。

 

 

向かいの座席では、自称悪魔のフルーフが、だらしなく口を開けて爆睡している。

 

 

「むにゃ……ソリテール様ぁ……お、おほぉ…………」

 

 

何やら幸せそうな寝言を漏らしながら、涎を垂らさんばかりの無防備な寝顔を晒していた。

先ほどまでの、血に満ちた魔法使いの姿はどこにもない。

 

ただの疲れ切った、そして少々頭のネジが緩んだ女性にしか見えなかった。

 

御者台に座り手綱を握るアインザームから、霧を伝って呆れを含んだ声が届く。

 

 

『……。そのままでいい』

 

「しかし……」

 

 

デンケンは戸惑いを隠せずにいた。

妻を救ってくれた恩人であり、契約を交わした自称悪魔。

 

その彼女がこの有様では、これからの話――自らが支払うべき対価についての話をどう進めればいいのか、皆目見当がつかない。

 

 

『案ずるな。契約の内容、および今後の処置については私も把握している。フルーフが説明責任を果たせぬ以上、私が代行しよう』

 

 

アインザームは手綱を操りながら、自身の身体から生じた霧で器用に「手」を形作り、フルーフが抱えていた鞄の中から一束の羊皮紙と、大きなガラス瓶を取り出した。

 

 

霧の手は、それらを車内のデンケンとレクテューレの前へと差し出す。

 

 

『まずは、これを見てもらおう』

 

 

デンケンが受け取ったのは、数枚の羊皮紙に記された診断書のようなものだった。

 

そこには、医師や宮廷魔導師たちが使うような難解な専門用語は一切なく、素人目にも分かりやすい平易な言葉と図解で、レクテューレの身体に起きていた現象が記されていた。

 

 

「これは……」

 

『専門的な用語を省いた、簡易的な説明書だ。フルーフが事前に用意していたものでな』

 

 

デンケンは食い入るように文字を追った。

そこには、これまでどの名医も解明できなかった病の正体が、明確に記されていた。

 

 

――『魂の魔力生成が及ぼす魔力循環不全』

 

 

『汝の妻を蝕んでいた病の本質は、肉体や魔力そのものの欠陥ではない。もっと根源的な……"魂"に起因するものだ』

 

 

アインザームの声が、馬車の揺れに合わせて静かに響く。

 

 

『魂とは魔力の源であり、そこから生み出される魔力が、何らかの要因で肉体へと正しく循環せず、滞りを起こしていた。川の流れが堰き止められれば水が腐るように、滞留した魔力が肉体を内側から衰弱させていたのだ』

 

「魂……。誰も原因を特定できなかった理由は、これか」

 

 

デンケンは低く呻いた。

魔法使いにとって魔力は身近な存在だが、魂そのものを知覚し、干渉できる者は皆無に等しい。

 

そもそも魂などという概念は眉唾もいいところだ。

真面目に議題に上げようものなら笑いものになる、未開の学問でしかない。

 

 

だがデンケンはこれらを信用する。

その証明がすぐ横に座り、血色の戻った頬で一緒に診断書を覗き込んでいるのだから、疑う余地などなかった。

 

 

『魂を知覚できぬ者に、この病へ対処できる道理はない。故に"不治の病"と呼ばれていたとしても、それは極めて自然なことだ』

 

 

レクテューレが、不安げに自分の胸元へ手を当てる。

胸の下では今、力強い鼓動が規則正しくリズムを刻んでいた。

 

 

『ただ、フルーフにはその魂が知覚できる。扱う魔法も、魂への干渉に特化したものだ』

 

 

馬車が小石を踏み、車体が軽く跳ねた。

フルーフの身体が傾ぎかけ、レクテューレが咄嗟に肩を支える。

 

当の本人は幸せそうな寝息を立てたまま、微動だにしなかった。

 

 

アインザームは構わず言葉を続ける。

 

 

『治療のアプローチは二段階に分かれる。まずは先ほど行われた蘇生魔法。崩壊寸前だった肉体を健全な状態まで修復し、魂を器へと再び定着させた。これで"死"という状態からは脱している』

 

「ああ……。それは、目の当たりにした」

 

 

デンケンは頷きながら、妻の温かい手をそっと握った。

指先に伝わる脈拍。それだけで、彼女が確かにここにいるのだと実感できる。

 

けれど、根本的な原因――魂からの魔力循環の不全が治ったわけではないはずだ。

 

 

『問題はその後だ。放置すれば、また同じように魔力が滞り、衰弱していく。そこで、対処療法として"これ"を用いた』

 

 

アインザームの霧の手が、診断書の次の頁をめくる。

そこには、奇妙な甲殻類のような生物の図が描かれていた。

 

 

「……寄生虫?」

 

『これはフルーフが自身の魂を切り分け、加工して創り出した人工の魔法生物だ。本来は……魔族に人間性を移植するために開発されたものだが、今回はその機能を調整し、純粋な"補助装置"として使用している』

 

 

レクテューレの顔から、僅かに血の気が引いた。

自分の体の中に、虫がいる。そう告げられれば当然の反応だろう。

 

 

『恐れることはない。それは害をなすものではないのだ』

 

アインザームの声が、諭すように穏やかさを帯びる。

 

『その生物は汝の魂に張り付き、溢れ出る魔力を吸い上げ、濾過し、全身へと強制的に循環させる役割を担っている。言わば、第二の心臓のようなものだ』

 

一拍置いて、アインザームは付け加えた。

 

『何にせよ、魂とそれに類する知覚を持つ者は、フルーフを含めこの世に二名しか存じていない。気分の良いものではないと承知しているが、気にするだけ無駄というものだ』

 

「滞るなら、強制的に流してしまえ、というわけか」

 

『細部は省略しているが、その認識で概ね正しい。詳細を知りたければ、フルーフが目を覚ましてから直接問うといい』

 

 

デンケンは診断書に視線を落としながら、情報を咀嚼した。

常識外れの治療法。だが、理屈は通っている。

 

 

『その寄生虫により、循環不全による衰弱は防げる。しかし、これはあくまで異物を埋め込んだ対処療法に過ぎない。故に、維持管理が必要となる』

 

 

ここでアインザームの声色が、一段と真剣味を帯びた。

車輪が土を噛む音が、妙に大きく響く。

 

 

『ここからが、汝らが支払うべき対価についての説明だ。心して聞くがいい』

 

 

デンケンは背筋を伸ばし、居住まいを正した。

どんな過酷な要求であろうと呑む覚悟はできている。

 

 

『まず、生涯を通して支払うべき対価についてだ』

 

霧の手が指を一本立てる。

 

『必ず、半年に一度はフルーフの元へ診断を受けに来ること』

 

「……診断?」

 

『そうだ。寄生虫は繊細な術式で構成されている。宿主の体調や魔力の質的変化によって、不具合を起こす可能性がある。定期的なメンテナンスが不可欠となる』

 

 

拍子抜けするほど、まともな要求だった。

いや、これは要求というより、医師による定期検診の指示ではないか。

 

 

『来られない事情がある場合は、事前連絡を欠かさぬよう。……連絡がなければ、期間が過ぎる前に勝手に汝らの元へ押しかける可能性もある』

 

 

アインザームが、呆れを滲ませて付け加えた。

デンケンは毒気を抜かれたような顔をした。

 

 

「それは……対価、なのか?」

 

『そうだ。要求する当人が対価と言えば、それが対価となる』

 

 

霧の手が、先ほど渡された大きなガラス瓶を指し示す。

中には、鮮やかな赤色をした、小指の先ほどの錠剤が数百粒、ぎっしりと詰まっていた。

 

まるで宝石を砕いて固めたような、妖しい輝きを放っている。

 

 

『この赤い石を、日に一度、必ず服用すること』

 

 

レクテューレが瓶を手に取り、不思議そうに中身を見つめる。

蓋の隙間から、微かに鉄のような匂いが漂ってきた。

 

 

『それは、体内の寄生虫を動かすための動力源だ。高密度の魔力と生命力の結晶……フルーフが己の命を抽出し、圧縮して生成したものとなる』

 

「命を……!?」

 

 

レクテューレが息を呑み、手の中の瓶を取り落としそうになる。

デンケンが咄嗟に手を添え、支えた。

 

 

『動揺するなと言っても無理な話だろうが、落ち着いて聞きなさい』

 

アインザームの声は、厳しくも忍耐強い響きを持っていた。

 

『寄生虫は常に魔力を喰らい続ける。宿主である汝の魔力だけでは賄いきれず、放置すれば生命力そのものを啜り始め、やがては宿主を衰弱させる』

 

 

レクテューレの指先が、瓶を握る力を強めた。

 

 

『だから、外部から燃料を補給し続ける必要がある。この赤い石を摂取することで、虫の動力を維持し、その機能を循環補助のみに限定できる。……飲み忘れぬことだ』

 

 

デンケンは、瓶の中の大量の錠剤を見つめた。

これ一つ一つが、目の前で爆睡している女の命の欠片だというのか。

 

 

「……こんなものを作り続けて、命は保つのか?」

 

『心配は無用だ。その一粒で人間数人分の生命力に匹敵する。フルーフが常人であったなら、一粒を生成する前に息絶えているだろう』

 

 

窓の外を、名も知らぬ鳥が横切っていった。

アインザームは淡々と事実だけを述べ続ける。

 

 

『フルーフは"不死"だ。それも、常軌を逸したレベルのな。自身の首を切り落とされても、心臓を潰されても、瞬きの間に再生する。命を数億、数兆と無駄に浪費しようが、フルーフには何の影響もない』

 

「そう、か……」

 

『ただし、副作用については説明しておかねばならん』

 

 

アインザームの声が、僅かに沈んだ。

過去の影を帯びたような、重い響き。

 

 

『これは本来、私の亡き妻を生き永らえさせるために使用されていたものを改良したものだ。含まれる魔力の大部分は寄生虫の動力源となるため、長期間服用しても危険な副作用が引き起こされることはない。だが、人体に害はないものの、一つの"変化"をもたらす』

 

馬車が緩やかな坂道に差し掛かり、車体が傾いだ。

 

『言った通り、その石は高純度の生命力の塊だ。それを摂取し続けるということは、外部から常に過剰なほどの生気を注入され続けることを意味する。……結果として、服用者は老化が極端に遅くなる。摂取を続ける限り、ほぼ不老といって差し支えないだろう』

 

「……」

 

デンケンとレクテューレは、同時に顔を見合わせた。

 

不老。

それは、権力者たちが血眼になって追い求める、夢のような概念だ。

 

 

『完全に不老不死となるわけではない。だが、肉体の老化は極限まで遅延し、寿命という概念が希薄になる』

 

アインザームは一度言葉を切った。霧が微かに揺らぐ。

 

『デンケン、汝は年老いていくが、妻であるレクテューレは今の若々しい姿のまま、時を止めることになる』

 

 

残酷な未来を、アインザームは淡々と提示した。

愛し合う夫婦の間で、流れる時間が異なってしまうことの悲劇。

 

夫だけが老い、妻だけが若く残される。

それは時に、死別以上の苦しみを二人に与えるかもしれない。

 

 

『それを受け入れられるか?』

 

 

問われたデンケンは、隣の妻を見た。

蘇ったばかりの、若く美しい妻。

 

彼女がこのままの姿で、自分だけが老いさらばえていく未来。

想像するだけで、胸の奥に鉛を流し込まれたような重さが広がる。

 

だが。

彼女が生きている。

 

その事実以上に価値のあるものが、この世にあるだろうか。

 

 

「構わない。共に生きられるなら、それ以上の望みなどない」

 

デンケンは、迷いなく答えた。

 

「彼女が生きていてくれるなら、俺が先に老いて死のうとも、彼女と共にいられる時間があるなら、姿形の違いなど些末なことだ。ただ、先立つことへの不安は……ある」

 

「デンケン……」

 

レクテューレが、潤んだ瞳でデンケンの腕にすがりついた。

 

『姿形の違いなど、か……そうか。確かに、その通りだな』

 

アインザームの声に、微かな安堵が混じった。

 

『ならば、安心するといい。フルーフは無神経なようでいて、妙なところでお節介だ。もし二人の時の流れがズレていくことに耐えられなくなったら……あるいは、共に永遠を歩みたいと願うなら、フルーフに言え。どうにかするだろう』

 

霧が小さく揺れた。

 

『私はこれ以上の禁忌に関わるつもりは毛頭ない。本来、このような自然の摂理に反する行いを許容などしていないのでな』

 

「どうにか……?」

 

『そうだ。どうにかしようとするだろう。……だが、それは未来の話だ。今はただ、頭の片隅に置いておけばいい』

 

一通りの説明を聞き終え、デンケンは呆然と呟いた。

 

「……本の中の悪魔とは大違いだ」

 

 

定期的な検診。

薬の服用。

 

そして、副作用という名の不老の恩恵。

これではまるで、ただの手厚い医療保護ではないか。

 

生涯をかけて支払う対価というには、あまりにも――こちらが得をするばかりだ。

 

 

「俺は、命でも魂でも差し出す覚悟だった。汚れ仕事でも、非道な行いでも、何でもすると」

 

『拍子抜けか。そう言いたいのだろう』

 

アインザームが静かに問う。

 

『汝は、悪魔に魂を売る覚悟で契約した。その覚悟は本物だっただろう。それでいい。その覚悟が必要になるのは、治療の対価の方だ。無論、人道に外れる行いへの強要ではない』

 

 

アインザームは、眠り続けるフルーフを一瞥した。

彼女の寝息だけが、規則正しく車内に響いている。

 

 

『汝が契約した悪魔は、口では悪逆非道なことを並べ立て、自分を悪党だと嘯くが……その本質は、愛する者のために必死な人間を決して無碍にはできない、ただの人間だ。人を殺めたことも数知れず、倫理に唾を吐き捨て、宗教に中指を立てる。お世辞にも善人というわけではないがな』

 

霧の向こうで、アインザームが自嘲気味に笑った気配がした。

 

『進んで悪行を働くような趣味はない。汝らに悪逆非道な無茶振りを強要することは決してないだろう。私が保証する。……ただ一点、ソリテールという魔族に関わる事柄だけは別だ。何にでも積極的に手を染める。悩みこそすれ、最終的にはどんな残忍なことでも平気で行うだろう。覚えておくがいい』

 

「そうか」

 

『動揺はなしか』

 

「ああ。ようやく悪魔らしいところが出てきて、むしろ安心している」

 

『それならば……それでいいだろう』

 

 

デンケンは、身体から力が抜けていくのを感じた。

張り詰めていた覚悟の糸が、温かいものに解されていく。

 

 

「なぜ、赤の他人にそこまでしてくれる」

 

『対価の話には、続きがある』

 

アインザームの声が、再び厳粛なトーンに戻った。

 

『フルーフの人生の目標は、"悔いなくその生を終わらせること"だ。……フルーフは死にたがっている。だが、死ねない。未練があるからだ』

 

「未練……?」

 

『フルーフには、過去に救えなかった義娘がいる』

 

 

アインザームは、馬車を走らせながら、静かに語り始めた。

それは、遠い昔の、雪深い山奥での物語。

 

 

魔物である自分と、病に冒された人間の少女――マキナとの出会い。

そこにフルーフが現れ、奇妙な共同生活が始まったこと。

 

マキナの病を治そうと、フルーフが研究に没頭し、彼女を生き永らえさせようと懸命だったこと。

そして――その努力も虚しく、マキナが残酷な運命によって命を落としたこと。

 

 

『マキナは、最期まで笑っていた。私に感謝し、幸せだったと言って逝った。……だが、フルーフは違った』

 

アインザームの声が、苦渋に滲む。

 

『自分を許せなかったのだ。自分がもっと上手くやれていれば。もっと才能があれば、治療法を見つけていれば。あるいは、マキナと関わらなければ、彼女はあんな死に方をせずに済んだのではないかと……。その後悔が、呪いのようにフルーフを縛り付けていた』

 

 

デンケンは、息を詰めた。

それは、自身がレクテューレを失った時に抱いた後悔と、似たものだったからだ。

 

救えなかった無力感。

自分の選択が、愛する者を死なせてしまったのではないかという自責の念。

 

 

『フルーフは、汝ら夫婦に私と妻を重ねているのだ』

 

アインザームが、背を向けたまま語る。

 

『病に倒れた妻。彼女を救おうと足掻き、絶望した夫。……その姿が、かつての私と妻に痛いほど重なったのだろう。だから、放ってはおけなかった。マキナを救えなかった過去を、汝らを救うことで塗り替えたかったのかもしれん』

 

 

フルーフの寝顔を見る。

涎を垂らして、間の抜けた顔で眠っている。

 

だが、その胸の内には、いつまでも消えない深い悲しみと、義娘への後悔と愛情が渦巻いていたのだ。

 

 

『フルーフの望みは、ただ一つ』

 

 

アインザームが、馬車を進めながら告げる。

その空洞の眼窩に灯る夕焼け色の炎が、霧越しに揺らめいた。

 

 

『汝らが、幸せであり続けることだ。笑い合い、愛し合い、生きていくことだ。……その光景を見せ続けてくれ。それが、最大の対価となる』

 

「幸せに、なること……」

 

『汝らが幸福であればあるほど、フルーフの魂は救われる。故に生きろ。悲劇で終わらせることがあれば……また後悔を刻むことになる』

 

 

なんと重く、そして優しい「対価」だろうか。

悪魔の契約などではなかった。

 

これは、傷ついた魂が求めた、祈りのような願いだった。

 

 

デンケンは、レクテューレを抱き寄せた。

彼女の呼吸が、存在が、生きている証が、ここにある。

 

これを守り抜くことが、自分たちの幸せになることが、あの不器用な「悪魔」への恩返しになるのなら――

 

 

「分かった。誓おう」

 

デンケンは、眠るフルーフと、そしてアインザームに向かって宣言した。

 

「俺たちは必ず幸せになる。誰よりも、何よりも。二度と手を離さず、この命ある限り、彼女を愛し、共に笑って生きていく」

 

「私も……誓います」

 

レクテューレも、涙を拭いて微笑んだ。

 

「私たちが幸せでいるところを、たくさん見せに行きます。それが、私たちにできる精一杯の感謝ですから」

 

『私にではなく、起きたフルーフに言ってやるといい』

 

アインザームは、満足げに霧を揺らした。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

『では、対価についての話を続けよう』

 

 

アインザームの霧の手が、三本の指を立てる。

その動きは、これから語られる条件の重さを示すかのように、ゆっくりとしていた。

 

 

『治療費として支払うべき三つの対価。……これらは、汝ら夫婦がこれから安全に生きていくために、フルーフが必要だと判断した枷でもある』

 

 

デンケンは、レクテューレの手をより強く握った。

覚悟はできている。

 

彼女と共に生きられるなら、どんな無理難題でも受け入れるつもりだ。

たとえそれが、これまでの人生の全てを捨てるようなことであっても。

 

 

『第一の対価。――ヴァイゼには、決して戻るな』

 

アインザームの声が、静かに、しかし有無を言わさぬ調子で響く。

 

『そして、今回の出来事、蘇生の事実を誰にも漏らすな。……領主グリュックにも、だ』

 

 

デンケンとレクテューレは息を呑んだ。

父に、自分が生きていることを伝えられない。

 

娘として、それはあまりにも辛いことだ。

 

けれどアインザームは、容赦なく言葉を続ける。

 

 

『この馬車はヴァイゼへは向かわない。人目のつかない辺境の村に、フルーフが隠れ家を用意している。レクテューレは今日からそこで暮らすのだ』

 

「……デンケンは?」

 

レクテューレが不安げに尋ねる。

 

『デンケンは、一度ヴァイゼに戻り、葬儀の後始末をつけよ。そして領主に、帝都へ戻ると告げるのだ』

 

「……理由を聞かせてもらえるか」

 

 

デンケンが問う。

ただレクテューレが死んだことになっているから、というだけの理由ではないはずだ。

 

それならば、ほとぼりが冷めるまで身を隠すなり、グリュックにだけひっそりと事情を説明すれば、後はどうとでもなる。

 

「決して戻るな」という強い言葉には、もっと明確な、致命的な理由があるはずだった。

 

 

『理由か。汝は知っているか?汝に魔法を教えた師、マハトの真の目的を』

 

「マハトの目的……?」

 

『人類との共存だ』

 

アインザームが、皮肉げに告げる。

 

『だが、マハトは致命的なまでに人類と相容れない。本気で共存の可能性を模索しており、人間の感情を知れば、共存できるのではないかと考えている。……しかし、その内実は紛れもない魔族だ』

 

アインザームの声に、僅かな同情が混じる。

 

『特定の感情を知るためなら、人間同士を殺し合わせることも厭わない。目の前で大事な人間を殺し、その悲しみや怒りを観察することで、感情を理解しようとする。……奴にとって、人間は実験動物でしかない。今、マハトがグリュックに仕えているのは、グリュックが"悪意"を教え、人の感情の一部を示すと約束したからに過ぎない』

 

「悪意……」

 

『友好の情はあるかもしれん。だがそれは、好悪の範疇だ。悪意、善意、罪悪感……そういった人の情を知るためであれば、奴は何でもする。いつ爆発してもおかしくない爆弾を抱えているようなものだ』

 

アインザームは、二人へ警告するように続ける。

 

『既にマハトの思考は、関係を築き歳月を共にしたグリュックを……そして、守ってきたヴァイゼという都市そのものを害する方向へと移行し始めている』

 

「なに……?」

 

 

デンケンが立ち上がりかけた。

グリュック様が危ない。ヴァイゼが危ない。

 

 

『座りなさい。……こればかりは対価として、ただ実行してもらわねば困る』

 

アインザームの威圧的な声に、デンケンは歯噛みしながら座り直す。

 

『フルーフがレクテューレが死ぬまで動かなかったのは、マハトの視線があったからだ。気づいていたかは分からぬが、汝らはずっとマハトから観察されていた。だからこそ、不用意には近づけなかった』

 

 

事実は事実として、アインザームは語る。

ただしフルーフが本気になればマハトを殺すことも可能だったという事実は、敢えて口にしなかった。

 

マハトはソリテールの友人だ。

確かにフルーフにとって二人の幸福は大事なことだが、それはあくまでフルーフ個人の事情であり、優先度としてはソリテールに関わる事柄よりも遥かに低い。

 

 

ソリテールの友人という枠にいるだけで、フルーフはマハトを殺す気も害する気も微塵も持っていなかった。

だからこそフルーフの選択肢には、このようにタイミングを見計らい、逃げるような形で助けるという方法しかなかったのだ。

 

このことを敢えてこの場で口にする必要はないと判断し、アインザームは話を続ける。

 

 

『そして、レクテューレが死に、デンケンへの興味が薄れたこのタイミングを狙って接触したのだ。……もしレクテューレが蘇生したと知れれば、マハトはほぼ確実に彼女を殺すだろう』

 

「なぜだ」

 

『主人の娘であり、弟子の妻。……それを汝と、己が長年仕える主人の前で殺めれば、"人間らしい感情"を覚えるかもしれないと、必ず考えるからだ』

 

 

デンケンは拳を固く握りしめた。

その場面を想像するだけで、指の関節が白くなるほど力が入る。

 

 

『だからこそ、離れた場所で蘇生し、マハトに一切を感づかれずに終える必要があった。……故に、戻ることは許されない』

 

 

アインザームの言葉は、残酷なほどに正しかった。

戻れば、レクテューレは殺される。

 

確実とは言えないが……マハトが本当にそこまでやるのであれば、最終的に殺される可能性は極めて高い。

 

 

『酷なことを言っている自覚はある。だが、ヴァイゼで何が起きようと、どんな噂を聞こうと、決して近づくな。フルーフが覚悟を試したのも、こうした部分を考慮してのことだ』

 

「……分かった」

 

 

デンケンは、苦渋の決断を下した。

 

義父を見捨てることになるかもしれない。故郷を失うことになるかもしれない。

だが、レクテューレを守るためならば、と、心を律する。

 

 

『必要以上に身分を隠す必要はない。名前を変える必要もない。マハトにさえ知られなければよいのだ。奴は基本的に、領地からは出てこない。既に興味の失せた汝を探し出してまで、近づいてはこないだろう』

 

興味が失せた……、その言葉を客観的に受け止める。

レクテューレを失ったデンケンは、マハトからすれば見るに耐えない抜け殻だっただろう。

いかにマハトであろうと、追ってこないのならどうとでも身は隠せる。

 

 

『次に、第二の対価だ』

 

アインザームが指を二本立てる。

 

『デンケン、帝都に戻り次第、現在の役職を辞職せよ。帝国から、自然に距離を取るのだ』

 

「辞職……」

 

 

デンケンにとって、それはむしろ望むところだった。

地位も名誉も、レクテューレがいなければ無意味なのだから。

 

今となっては、時間と労力を奪われるだけの足枷にしか感じられない。

 

 

『理由は単純だ。帝国にレクテューレの存在を気取られるリスクが大きすぎる。……汝は既に、帝国の後ろ暗い部分にまで片足を踏み入れているだろう?』

 

 

デンケンは頷く。

レクテューレの治療法を探すため、公にはできないような任務も請け負ってきた。

 

そのせいで、帝国の暗部とも繋がりができてしまっている。

 

 

『これ以上深入りすれば、帝国は汝の周辺情報を絶えず収集し、監視する恐れがある。フルーフは蘇生魔法で反吐の出るようなビジネスをしているが、帝国にはその魔法を一切感づかれていない。魔法の使用と同時に、魂に対して絶対的契約を強いているからだ』

 

アインザームは続ける。

 

『だが、レクテューレは公的に完全に死亡している人間であり、領主の娘。帝国に仕える高名な魔法使いの妻だ。当然、帝国もその事実を把握している。……それが生きていると知れれば、どうなる?』

 

 

想像するまでもない。

死者蘇生などという禁忌中の禁忌。

 

帝国の知的好奇心と欲深い貴族たちが、黙っているはずがない。

 

 

『まず、墓を暴くだろう。……墓にはフルーフが用意した、寸分違わぬ偽物の死体が埋葬されている。蘇生という答えに行き着かなくとも、確実に面倒なことになる』

 

「そうなる前に、逃げろということか」

 

『そうだ。上司に噛みついてもいい、現状の不満を訴えて上層部から不興を買ってもいい。時間がかかったとしても、自然に辞職しても仕方ない流れを作り、帝国に属することをやめるのだ』

 

「その後は?」

 

『フルーフがどうにかする。海路で帝国と北部高原、中央大陸を行き来する商団にいくつか繋がりを持っている。もしも国防結界や関所を抜けられないのであれば、商団の貨物に紛れ、秘密裏に国を出ることもできるだろう』

 

 

デンケンは、フルーフの用意周到さに舌を巻いた。

この自称悪魔は、デンケン達たちが生き延びるための道筋を、既に完璧に描いていた。

 

 

「それならば、やはり名を捨て、身分を完全に偽る必要があるのではないか?」

 

『いや……先ほども告げたが、そこまでしなくてもいい。私の意見ではなく、フルーフの意見だ。帝国に狙われたと感じたのであれば、フルーフの所へ駆け込むといい。私は関与せぬが、なんとでもなるだろう。……何も言わず納得してくれるか』

 

「あ、ああ。分かった」

 

 

フルーフに何かとんでもない考えがあるのかと問われれば、何もない。

一切何もないのだ。

 

ただ、「そんなストレス生活を強いるなどありえない」という適当な考えで、別に隠さなくてもいいと判断している。

 

重要なことはマハトにバレないことだけだ。

 

仮に帝国に狙われれば、嬉々としてぶつかりに行くだろう。

フルーフにとって帝国など、その辺にある村程度の価値と脅威でしかない。

 

滅ぼうが、何をしていようがどうでもいい存在。

その辺を這う虫のような認識だ。

 

二人を殺そう、あるいは連れ去ろうというのであれば、フルーフは何の迷いもなく「よし殺そう」となるだろう。

 

ソリテールと共に自分の死体を大量に投げ込み、帝国領土を更地にして回る姿がありありと想像できてしまう。

 

ソリテールは絶対に反対などしない。

リーニエにも期待できない。ゾンビ戦法と自爆特攻で気が済むまでやり切るだろう。

 

 

アインザームには、この滅茶苦茶すぎるフルーフの精神構造からくる考えを言語化できない。

フルーフの代わりに代弁してくれと言われても無理なのだ。

 

二人に深く突っ込まれる前に、アインザームは次の内容へ移る。

 

 

『最後に、第三の対価だ』

 

アインザームが三本目の指を立てる。

 

『そこそこの規模の国で名を上げ、重役となれ』

 

「……なんだって?」

 

 

ここへ来て、意外な要求だった。

隠れ住むのではなく、表舞台に立てと言うのか。

 

 

『国を出た後、レクテューレと合流し、どこでもいいので、帝国が気軽に危害を加えられない国……あるいは表面上の同盟国でもいい。他国に身を置き、影響力を持つのだ』

 

アインザームは、隣に座るレクテューレを見た。

 

『レクテューレは、歳を取らない。……どうしても、奇異の視線に晒されるだろう』

 

 

不老という代償。

それは、隠し通すことが難しい異質さだ。

 

 

『その辺りの言い訳づくりと、周囲を勝手に納得させる立場を固めよ。……国の魔法使いとして最上位まで上り詰めれば、レクテューレの若さにも、人々は勝手な憶測と噂で、説明するまでもなく理屈をつけてくれるだろう』

 

「なるほど……」

 

「肌を若返らせる魔法を開発した、とか?」

 

 

レクテューレが、少し茶目っ気を含んで言う。

 

 

『その通りだ。高位の魔法使いの妻ならば、ありそうな話だと納得するだろう。……権力という鎧で、彼女の"異常"を守るのだ』

 

「分かった。……だが、もし失敗したら?」

 

『うまく行かなければ、それでも問題はない。最悪、フルーフがいくらでも住み心地のいい場所を用意するだろう。第三の対価については、そこまで深く考えなくてもいい』

 

アインザームは淡々と述べる。

 

『私は代弁をしているだけだが、フルーフは元来、計画などを立てて動く人間ではない。頭の中では常に、上手く行かないのであれば、最終的に力技でどうにかしようとしか考えていない。だからこそ、汝らもあまり深くは考えるな。どうなろうと、フルーフは自分でなんとかしようと動く』

 

アインザームはそう言って、話を締めくくった。

 

「……フルーフという人は、本当に不思議な人ね」

 

レクテューレが、眠るフルーフを見つめながら呟いた。

 

「悪魔だなんて言っていたけれど……まるで、過保護な親みたい」

 

 

デンケンもまた、フルーフの寝顔を見つめた。

彼女が提示した対価は、全て俺たちが生き延びるための、具体的で現実的な指示だった。

 

俺たちから何かを奪うためではなく、俺たちが幸せになるための道しるべを、要求という形で示していた。

 

 

「ああ。……全くだ。筋金入りの、奉仕体質なのだろう」

 

 

馬車は、新しい未来へと向かって進んでいく。

その道は決して平坦ではないだろう。

 

故郷を捨て、地位を捨て、逃亡者となるかもしれない。

 

だが、隣には彼女がいる。

そして、この先には、不器用な悪魔が用意してくれた、確かな希望が待っている。

 

 

デンケンは、レクテューレの手を強く握りしめた。

もう二度と、離さないと誓って。

 

 

『以上だ』

 

 

アインザームはそれだけを短く告げると、霧の身体を御者台の正面へと向け直した。

もう語るべきことは何もないと言わんばかりに。

 

 

馬車は一定のリズムを刻みながら、朝霧の立ち込める街道をひたすらに進んでいく。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

車内に戻った静寂の中、デンケンは隣に座るレクテューレの肩をそっと抱き寄せた。

彼女の呼吸が、彼女が確かにここに存在していることを伝えてくれる。

 

だが同時に、これから彼女に強いる運命の過酷さが、デンケンの胸を締め付けた。

 

 

「……レクテューレ」

 

デンケンは、眠るフルーフを起こさぬよう、声を潜めて語りかけた。

 

「これで、全てが決まった。俺たちはヴァイゼを離れ、これからを生きることになる。だが……本当に、いいのか? 勝手に君の未来まで決めてしまった。恨まれても仕方がない」

 

一番の懸念は、やはり第一の対価だった。

 

故郷へ戻るな。

父であるグリュックに二度と会うなという命令。

 

死別したことになっているとはいえ、生きているのなら一目会いたい、言葉を交わしたいと願うのが人情だろう。

それを一生禁じられる苦しみは計り知れない。

 

 

だが、レクテューレはゆっくりと顔を上げ、デンケンの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

その瞳に、迷いや動揺の色はなかった。

 

ただ、澄み渡った湖面のような、静かな覚悟だけが湛えられていた。

 

 

「ええ。……覚悟はできているわ」

 

彼女はデンケンの手を、両手で包み込むように握り返した。

 

「悲しくないと言えば、嘘になるわ。お父様にもう二度と会えないこと、生まれ育ったヴァイゼの土を踏めないこと。……胸が張り裂けそうなくらい寂しい。マハトに本心を問い詰められないことも心残り」

 

 

彼女の声は震えてはいなかった。

事実を事実として受け止める、芯の強さがあった。

 

 

「でもね、デンケン。お父様がマハトと何か約束を交わしたのなら……それがどんな結果を招こうとも、お父様は全て覚悟の上だと思うの」

 

「グリュック様が?」

 

「ええ。私、ずっと見てきたもの」

 

 

レクテューレは、懐かしむように目を細めた。

屋敷の窓から見た、父と魔族の姿を思い出すように。

 

 

「あの二人の間には、主従の契約以上の何かがあったと思うわ。……書斎で二人きりで話している時、お父様はよく笑っていらした。政治的な駆け引きや、時にはあくどい策謀を巡らせている時でさえ……いいえ、そんな時だからこそ、二人はどこか楽しそうだった」

 

 

デンケンもまた、かつての光景を思い出す。

確かに、グリュック様はマハトといる時、領主としての重圧から解き放たれたような、奇妙な軽やかさを纏っていた。

 

 

「種族も立場も違うけれど、二人はきっと……友達のような関係になれていたんだと思う。共犯者であり、理解者であり、そして友人だった」

 

 

レクテューレの言葉を否定することなど、デンケンにはできない。

二人の関係を一番近くで感じていたのは、他ならぬ彼女なのだから。

 

 

「だから、娘である私が今更口出しすべきことではないのよ。領地のために、領主であるお父様がマハトと共に歩むと決めたのなら……その道の先にあるのが破滅だとしても、私はその決断を尊重したい」

 

 

彼女は窓の外、遠ざかっていくヴァイゼの方角へと視線を向けた。

木々の合間から覗く朝空は、薄い雲を纏って淡い青に染まっている。

 

 

「もしかしたら、マハトの危険性を伝えず、のうのうと生きようとする私は……ヴァイゼの人々に恨まれることになるかもしれない。地獄に堕ちるような最期を迎えるかもしれないわ。……でも」

 

 

彼女は視線を戻し、再びデンケンを見た。

その瞳には、夫への深い愛と信頼が宿っていた。

 

 

「デンケン、あなたが私のために全てを捨てて、悪魔との契約を受け入れようとした。なら……私にも、その覚悟はあるわ」

 

レクテューレは、デンケンの頬にそっと手を添えた。

 

「ねえ、デンケン。もし私たちが、この選択の果てに地獄に堕ちることになっても……ずっと、一緒についてきてくれる?」

 

 

それは、試すような問いではなかった。

ただ確認するような、静かで、切実な響きを持っていた。

 

 

デンケンは、大げさに頷くことも、驚くこともなかった。

ただ、彼女の手のひらに自分の手を重ね、ゆっくりと、噛みしめるように答えた。

 

 

「ああ。当たり前だ」

 

 

地獄だろうが、果てのない逃避行だろうが、構わない。

彼女が隣にいるのなら、そこが俺の居場所だ。

 

 

「君が地獄へ行くなら、俺も喜んで同行しよう。俺たちは夫婦だ。喜びも、悲しみも、そして罪も罰も、全て二人で背負っていく」

 

「ふふ……頼もしいわ、私の旦那様」

 

 

レクテューレが、花が綻ぶように微笑んだ。

その笑顔は、病に伏していた頃の儚げなものではなく、未来を見据えた強い女性のそれだった。

 

 

「ありがとう、デンケン。……愛しているわ」

 

「俺もだ。レクテューレ」

 

 

二人は、互いの額をこつりと合わせた。

言葉はもう必要なかった。

 

ただ寄り添い、互いの呼吸を感じ合うだけで、不安は消え去り、確かな絆だけが残った。

 

 

レクテューレは微笑んだまま、ふと思い出したように小首を傾げる。

 

 

「そうだわ……昔言っていたように、マハトよりも強くなってみる?」

 

「え……?」

 

 

デンケンは虚を突かれた。

かつて、少年だった頃の誓い。

 

 

『マハトより強くなって、君を守る』

 

あの無邪気で、必死だった頃の言葉。

 

「これからは、今までとは違う生き方になるわ。生き抜くために多くのことを学ばないと。……だったら、私も強くなるわ」

 

「本気か?」

 

「あなた一人に背負わせない。教えてくれるんでしょう、魔法。なら最後まで責任を持って教えて。色々なことを学んで、あなたと一緒に強くなる。……だから。よろしく――先生」

 

「先生……懐かしいな」

 

彼女は俺の胸に頭を預け、穏やかに、しかし力強く言った。

 

「いつか、悪さをするマハトを……私たち二人で、お仕置きしてあげましょう?」

 

 

復讐ではなく「お仕置き」。

それは、父親の友人を、そして夫の師を想う、彼女なりの愛情と覚悟の形だった。

 

もし父の道が間違っていたとしても、その結末を背負い、正すのは自分たちしかいないのだと。

 

 

「今は、もう帰れないけれど。私はあの地の領主の娘だから。責任を取らないと」

 

 

デンケンの胸に、熱いものが込み上げた。

 

俺が守らなければと思っていた彼女は、いつの間にか、俺と肩を並べ、共に歩んでくれようとしていた。

 

マハトという勝ち目すら浮かばない魔族に一歩も怯まず、マハトに挑むなど考えもしなかった俺の手を引いてくれる。

 

 

昔と何も変わらない。

図体ばかり大きくなって、いつも彼女に道を示してもらっている。

 

 

俺は……レクテューレの夫だ。

彼女のために生き、彼女と共に生きる。

 

彼女の目標にマハトがいるのならば、俺も共に歩むだけだ。

 

 

「そうだな。俺も……君の夫だ。領主であるグリュック様の義息子として、責任は果たそう」

 

「決まりね。また暫く会えない日が続くと思うけれど、必ず帰ってきてね。私のデンケン」

 

「……ああ。そうだな。必ず帰ろう、いつものように。どれほど道のりが険しかろうと……君の元へ。俺のレクテューレ」

 

 

デンケンの声が、微かに震えた。

鼻の奥がツンとするのを堪えながら、彼はできるだけ平静を装って答える。

 

 

「二人で強くなろう。そしていつか……必ず、マハトに一泡吹かせてやろう」

 

 

それは、遥か遠い未来の約束。

けれど、今の二人には、それが決して不可能な夢物語だとは思えなかった。

 

 

デンケンは、レクテューレの首にかかった銀のペンダントに触れる。

一度は役目を終えたと思っていた、青い石の護符。

 

 

「レクテューレ。もう一度言おう」

 

「今度こそは、間違えない」

 

「生きる意味を……二度と見失ったりはしない。……俺は、お前と生きるために、ここにいるんだ」

 

「ええ、デンケン。私もよ」

 

 

レクテューレが、そっと目を閉じる。

デンケンは、彼女の額に、そして唇に、優しく口づけを落とした。

 

 

それは、激情に任せた激しいものではなく、互いの存在を確かめ合うような、

静かで、温かい口づけだった。

 

苦難も、悲しみも、全てを二人で分かち合い、生きていくという誓いのキス。

 

馬車は揺れる。

行き先は、見知らぬ土地。

 

未来は、霧の中のように不確かだ。

 

 

だが、二人の手は固く繋がれていた。

その繋がりさえあれば、どんな暗闘の中でも、迷うことはない。

 

二人は寄り添い合い、ただ前を見つめていた。

 

 

馬車は進む。

過去を置き去りにし、未だ見ぬ未来へと。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

そして、時は流れた。

 

季節は巡り、時代はうねり、世界は形を変えていく。

だが、二人の歩みだけは変わらず、固く結ばれた手だけが、彼らの道標であり続けた。

 

 

――北部高原の港街、シンビオシス。

 

 

潮風が頬を撫で、どこかの屋台から焼き菓子の甘い香りが漂ってくる。

広場は、かつてないほどの熱気に満ちていた。

 

 

空からは魔法で生み出された色とりどりの花弁が、初雪のように静かに降り注いでいる。

赤、青、黄、紫――それらが陽光を受けて煌めきながら、ゆっくりと地面へと舞い落ちていく。

 

街の住人たち――人間も、そして人間に交じって暮らす魔族や魔物の子供たちも、一様に空を仰ぎ、歓声を上げている。

 

祝祭の鐘が高らかに鳴り響き、その音色が港の波音と混じり合って、街全体を祝福の調べで包み込んでいた。

 

その広場の片隅、来賓席の一角に、一組の男女が座っていた。

 

 

「……賑やかなものだな」

 

 

深く刻まれた皺、たっぷりと蓄えられた口髭。

歳月という年輪を重ね、老境に入った男――デンケンは、眩しそうに目を細めた。

 

 

木製の椅子の硬さが、老いた腰骨に微かな痛みを与える。

だが、その程度の不快など、今日という日の前では些末なことだった。

 

 

ヴァイゼを出奔し、名誉を捨て、地位を捨てた男は、約束通り他国で頂点まで登り詰め、確固たる地位と権力を手中に収めていた。

 

 

「ええ。本当に……素敵だわ」

 

デンケンの隣で、穏やかな声が響く。

そこに座っていたのは、五十年前と何一つ変わらぬ姿の、若く美しい女性――レクテューレだった。

 

 

彼女の時間は、あの日から止まっている。

フルーフの作った「赤い石」と、体内に巣食う奇妙な共生生物のおかげで、彼女は老いという概念から限りなく遠のき、健康体を維持し続けていた。

 

 

夫は老人、妻は三十路で止まったまま。

 

生来の幼さもあり、二十代でも十分に通用する若さだ。

傍から見れば奇異な組み合わせだろう。

 

だが、二人の間に流れる空気は、半世紀以上を連れ添った夫婦だけが持つ、阿吽の呼吸と深い信頼に満ちていた。

 

 

「まさか、本当に結婚式を挙げるとはな。あのソリテールだぞ」

 

 

デンケンが苦笑交じりに呟く。

花弁が一片、彼の膝に落ちた。

 

触れた瞬間、淡い光を放って消えていく。

 

 

「ふふ、フルーフの念願ですもの」

 

 

二人の視線の先には、広場の中央に設けられた祭壇。

そこには、この街の代表であり、今日の主役である二人の姿があった。

 

 

純白のウェディングドレスに身を包み、感極まって今にも泣き出しそうな顔をした白髪の人間――フルーフ。

そして、その隣には、新郎用の豪奢な白の礼服を凛々しく着こなし、全てを見透かすような翠色の瞳で微笑む大魔族――ソリテール。

 

魔族と人間。

女同士。

捕食者と被捕食者。

 

 

あらゆる常識を無視し、ただ「執着」と「愛」という名の鎖で結ばれた、異形の夫婦。

 

 

「誓いますッ! 何度でも誓いますッ! ソリテール様ぁ゛愛してます!!」

 

 

祭壇の上で、フルーフがなりふり構わず叫んでいる。

その声は涙で湿り、鼻水で汚れ、とても淑女のものとは思えない。

 

だが、そこには魂からの絶叫のような喜びが込められていた。

 

 

「……誓うわ」

 

 

対するソリテールは、随分と間を置いてから誓いを口にする。

表情からは何も読み取れないが、満更ではないことは見て取れた。

 

そして、ソリテールは恭しく新婦の手を取り、その指に指輪を嵌めた。

 

ワァッ!! と広場が揺れるほどの歓声が上がる。

鐘の音が一層高く響き渡り、花弁の量が増していく。

 

 

デンケンは、その光景を万感の思いで見つめていた。

 

 

「……フルーフは、本当に変わらんな」

 

「ええ。あの時、私たちを救ってくれた時のまま。本当に愉快な人」

 

 

レクテューレが、しわくちゃになったデンケンの手を、若々しい両手で包み込む。

老いた皮膚と、張りのある皮膚。

 

異なる時間を生きる二人の手が、確かに重なり合っている。

 

五十年前。

絶望の淵にいた二人を救い上げたのは、神でも勇者でもなく、あの破綻した、けれど誰よりも愛に飢えた「悪魔」だった。

 

 

あの日、代理であるアインザームと馬車の中で交わした契約。

 

 

『幸せになり、それを見せつけること』

 

 

その対価を支払うために、二人は生き抜いてきた。

 

デンケンは権力を握り、レクテューレの「不老」という異常性を「高位魔法使いの秘術」として周囲に納得させ、彼女を守る鉄壁の盾となった。

 

 

「儂らは、約束を果たせているだろうか」

 

デンケンが問いかける。

 

「ええ。きっと」

 

 

レクテューレは、祭壇の上のフルーフを見つめた。

 

泣きじゃくりながらソリテールに抱きついている彼女の顔は、五十年前に見た寝顔よりも、ずっと幸せそうだった。

 

 

「見て、デンケン。フルーフがこっちを見て笑ってくれたわ」

 

 

視線が合う。

レクテューレは大きく手を振り、デンケンは控えめに手を上げて挨拶を交わす。

 

涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をしたフルーフが、デンケンとレクテューレを見つけ、満面の笑顔を浮かべた。

 

デンケンは、隣の妻を見た。

五十年経っても色褪せない、愛しい人。

 

 

かつてフルーフは、レクテューレを生き返らせずともデンケンが立ち直れると断言していた。

だが、デンケン自身は確信する。

 

たとえ立ち直ったところで、今以上の充実も幸福も決して味わえなかっただろうと。

 

 

「ねえ、デンケン。私は、あなたと出会い、共に歩めて――とても幸せよ」

 

「……ああ。儂も、君に出会えたことが、この人生の中で一番幸せだ」

 

 

デンケンは、レクテューレの手を強く握り返した。

 

 

「レクテューレ。儂の人生は、君と共にあった。それだけで、儂は世界で一番の幸せ者だ」

 

「私もよ、デンケン。あなたのおかげで、私は一度終わったはずの命で、こんなにも美しい景色を見ることができた」

 

 

レクテューレが、デンケンの肩に頭を預ける。

彼女の髪から、昔と変わらない花の香りが漂ってきた。

 

 

「ありがとう。私を、ここまで連れてきてくれて」

 

「礼を言うのは儂の方だ。……生きていてくれて、ありがとう」

 

 

祝福の鐘が鳴り響く。

花弁が舞い散る中、魔族と人間がまた口づけを交わしている。

 

 

それは、かつて「あり得ない」とされた奇跡の光景。

そして、客席で寄り添う老人と少女のような夫婦もまた、もう一つの奇跡の形だった。

 

 

五十年の歳月を超え、彼らの旅路は、この祝福の場所へと辿り着いたのだ。

かつて交わした「生きる意味を忘れない」という誓いは、今も二人の胸に、温かな灯火として息づいていた。

 

「で、いつ若返ってくれるの? 久しぶりにあの頃の可愛い『あなた』も見たいわ」

 

「……まだ、いいだろう。儂は存外、今のままを気に入っているのでな。最低でも宮廷魔法使いを引退し、後進に託してからだ」

 

 

この空気で、それを言うか……と、デンケンは己の妻に猛烈にツッコミたくなったが、言葉を濁す。

レクテューレの目はキラキラと輝き、期待しているのが丸わかりだった。

 

 

背骨が曲がり、老いてからは休日もゆっくり過ごすことが多くなった。

だがレクテューレは体力が有り余り、感性も若々しいままだ。

 

いい加減、フルーフに言われた通り老衰対策をすべきなのだろう。

 

 

だが、今の時間はデンケンとしても気に入っている。

若い魔法使いに妻を自慢したり、老人として後進の世話を焼くことにも、それなりの楽しみを感じていた。

 

 

無論、レクテューレが他の男のものになるなど断固として認められない。

このまま死んでやるつもりなど欠片もない。

 

ただタイミングを見計らっているだけだ。

 

 

「なら魔法を学びましょう。ここには凄い魔法使いがたくさんいるわ。好きでしょう、魔法」

 

「ああ。今では君の方が余程積極的に魔法を学んでいるな」

 

「ふふ、もっと強くなって。領地全体を金色に変えてしまった、あの臣下に領主の娘としてお仕置きしてあげないと」

 

 

レクテューレは微笑みを浮かべるも、目元に影が差し、迫力に溢れていた。

 

貴族としてではなく、荒事に揉まれ生き抜いてきた結果、レクテューレには最早怖いものなどなく、非常にバイタリティに満ちていた。

 

デンケンもすっかり尻に敷かれ、この顔で見つめられると願いを聞き入れずにはいられなくなっている。

 

 

「ふぅ、全く。そう言われれば儂も腰を上げるしかあるまい。久しぶりに北部魔法隊の若い者達に挨拶でもしに行くか。レクテューレが随分と世話になっているようだからな」

 

「嬉しいわ、デンケン。それに魔法だけじゃなくて、フルーフと相談して、マハトにお仕置きする『秘策』も用意してもらっているの」

 

「血の気が多いな、レクテューレ。儂はどんな君でも愛しておるが、今はフルーフの祝いの席だ。そのことだけに集中しよう。全てが終わった後、どこへでも付き添おう」

 

「ごめんなさい、デンケン。しばらく滞在するのだから、予定を決めておきたかっただけよ。これは、あなたとの久しぶりの遠出。だから少し浮かれすぎてしまったわ」

 

「儂は君といられるだけで、年中浮かれている。だから謝らないでくれ。君に謝られると、儂は……」

 

 

言葉が詰まった。気づけば、若い頃の口調が戻りかけている。

 

 

「……俺は、何も言えなくなる」

 

「ふふ――はぁい。可愛い旦那様。あなたを困らせないように、じっとしてます」

 

「はぁ、全く」

 

 

肩に身体を預けるレクテューレに、デンケンは満更でもない薄い笑みを浮かべる。

 

 

二人の人生はこれからも続いていく。

それが地獄であろうと、天国であろうと、身体を預け合い共に進むだろう。

 

死が二人を分かつ、その日まで。

 

 

 




はい!完結!終了!解散!

というわけで、完結です。お疲れ様です。


時系列としまして、本編2話から少し経ち、接触して蘇生。
最終11話へと繋がる流れですね。


デンケン夫妻に関する話の回収、アインザームとの完全和解、義娘の悔い解消、マハトの墓穴作りと4つを一気に終わらせました。

本編にあらすじ的なのは後々投稿します。
正直、メンタルボロカスで、本編の筆を動かすだけの精神力は残ってないですが、書こうとは思ってます。



結婚式要約。
レクテューレ「うぉぉぉ、ソルガニール!ゾルトラーク!魔法魔法魔法!」

デンケン「自己防衛。さすレク。」

フルーフ、アイン、北部魔法隊(なに教えてんだ、この爺)





以下。寄生虫改修レポート。

【改修内容】
1. 人間性付与機能の再実装(調整版)
・概要: 検体開発当初に搭載されていた「人間性の強制付与」機能を再実装。
・調整事項: 宿主(レクテューレ)への精神汚染および人格改変を防止するため、
通常時は完全休止状態を維持。宿主の生命活動停止を検知した場合にのみ起動する
よう術式を再構成。

2. 転移・再寄生プロセスの追加実装
・概要: 宿主死亡検知時、検体が自動離脱し、直接死因をもたらした対象(加害者)の
魂へ転移・再寄生するプロセスを新規追加。
・発動条件: 宿主の心拍停止および魂の器からの離脱を感知。
・標的選定: 殺害実行者の魔力痕跡を追跡し、自動捕捉。
・再寄生動作: 不可視かつ高速で対象の魂へ侵入、定着。新宿主に対し、
保存された「人間性」を強制的に植え付ける。

【特記事項】
・本機能は不可逆的処理であり、一度発動した場合、検体は機能停止・消滅する。
・再生成・再利用は不可能。

以上。
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