1937年7月7日、中華民国北平市に駐屯する日本軍は、現地に展開する国民革命軍と武力衝突を起こした。現地では一時的に停戦が成立したものの、日本政府は現地への大規模な増援を決定し、その上で更なる追加条件を突きつける。これを中華民国は拒絶したことで、日本政府は中華民国への武力行使を決定した。
この動きに中華民国は上海に精鋭部隊を派遣する。ここには少数ながら日本軍が展開しており、そこを制圧することで首都南京の安全を確保しようとした。加えて、上海には欧米諸国の租界が広がっており、ここを戦場とすることで自国に優位な国際介入を狙う。上手くいけば、対日制裁発動も期待できるだろう。
だが、現地の日本軍は激しく抵抗した。国民革命軍は数で優勢だったものの、日本軍は火力では優勢だったからだ。その間に増援部隊が到着したことで、一転して防衛に転じるほかなかった。当初は日本軍の攻撃を良く押さえていたものの、背後に大規模な部隊が上陸に成功したことで、11月9日には上海の防衛は事実上崩壊してしまう。
この勝利に気をよくした日本軍上層部は首都南京攻略を決定し、現地の第10軍はいち早く占領するために猛進した。その前進速度は凄まじく、12月8日には南京を包囲してしまう。この事態に中華民国首脳部は飛行機での脱出を余儀なくされた。残された部隊は必死の抵抗を見せたものの、12月13日に首都南京は陥落する。
ブリュッセルで九カ国会議が始まる。この会議で欧米諸国は日本の侵攻こそ非難したものの、中華民国が期待した対日制裁は課せられなかった。一番期待したアメリカは寧ろ軍需品の需要拡大での景気回復を望む始末だったし、次に期待するイギリスも欧州での戦争機運から日本との衝突を望んでいない。
このような絶望的な状態で、中立国のドイツが日中間の和平交渉を斡旋する。当時、ドイツは中華民国への軍事支援及び経済的連携を深めつつ、日本とは対ソ戦を意識した結びつきを深めており、日中間の戦争早期終結には積極的だったからだ。これに不利を認識する中華民国と短期戦を望む日本は受け入れた。
だが、この和平交渉は失敗に終わってしまう。理由は日本の過剰な要求にある。日本は華北及び内蒙古への日本軍駐留及び満州国の正式承認を求めたからだ。これを無理やり日本に当て嵌めるなら、アイヌ人国家及び琉球王国の独立を承認しつつ、関東平野への軍隊駐留を認めろというに等しい。
これに日本軍は困ってしまう。なにせ、中国大陸は広い。全てを制圧するだけの戦力はないし、あったとしてもソ連への備えも必要だった。かといって、条件を引き下げるつもりもない。なにせ、華北の各種資源と経済圏は満州とは比較にならないほど魅力的であり、この事変に乗じて自国の影響圏に置きたいからだ。
そこで日本は一方的な事変解決を宣言する。現在占領中の揚子江沿岸及び黄河以北の華北には傀儡政権が樹立し、彼らとの和平交渉で日本視点では満州国の独立及び華北への駐留権を得る。当然、これは茶番に過ぎない。これ以上の負担を避けつつ、自身の欲する地域を得るために、現在の占領地にて居座ることにしたのだ。
無論、中華民国は激怒した。1938年春には大軍で南京奪還を図るものの、日本軍の強固な陣地を突破できない。これに自信を深めた日本軍は防衛陣地を強化しつつ、将来的には戦力を削ろうとした。現時点で40万人の戦力が投じられているが、後方のゲリラ討伐後には半分ほどに減らされる予定だ。
これに中華民国は焦る。正攻法では勝てない以上、消耗戦での粘り勝ちしか無いからだ。国際社会も日本の侵略には批判的だが、日本との貿易額の多さとドイツの脅威から具体的な制裁には否定的である。このままでは満州と同じように日本の不法占拠が、事実上既成事実となってしまうだろう。
実際、日本側も国際社会の『黙認』を狙っていた。故に敢えて中国への海上封鎖や都市爆撃を控えて、中国国内の欧米権益へのダメージを避けたのだ。こうなるとアジア貿易で利益を得ている欧米の資本家は日本への制裁に及び腰となってしまう。下手に刺激したら、利益の源泉を潰されるかもしれないからだ。
さらに日本側のロビー活動も上手かった。日本は中華民国国内の汚職を取り上げて、中華民国への無償支援が無駄になると印象づけたのだ。こうなるとアメリカなどの民主主義国家では中華民国への公的支援に及び腰となってしまう。有権者たる国民は税金の無駄遣いに厳しく、如何に大義名分があろうとも反対してしまうからだ。
こうしている間にヨーロッパでは二度目の大戦が始まる。欧米諸国は目の前の戦争に集中しなければならず、遠いアジアでの戦闘に関心を示さなくなった。唯一の例外はソ連であったものの、ノモンハン事件後は航空部隊の撤収等で支援を徐々に縮小していた。彼らもヨーロッパの勢力圏拡大に躍起となっていたからだ。
このような中で、日本は徐々にドイツとの関係を希薄化させる。理由は独ソ不可侵条約締結だ。もともと対ソ防衛のために利害の一致するドイツと手を結んだにも関わらず、ソ連と手を組んで英仏との戦争に突入した。もはや、ドイツへの接近は一利もない。なら、英仏に参戦と引き換えで、中国大陸における自身の影響圏を認めさせようとした。
ただ、これに英仏は慎重だった。中華民国に多くの権益を持つ関係上、日本の要求を受け入れることは難しかったからだ。仮に受け入れようものなら、中華民国に権益を没収されるからかもしれない。そうでなくても、ボイコット等で商売できなくなるだろう。日本の参戦を天秤に掛けるほどではなかった。
だが、1940年6月のフランス陥落で状況は一変する。イギリスは本土上陸の危機に陥り、フランスに至っては本土を失ってしまう。少しでも有力な味方の欲しい英仏は日本側の要求を呑み、満州国の独立承認及び中国大陸における日本の権益を認めた。これを受けて、8月16日に日本はドイツへ宣戦布告する。
それとともに日本海軍は駆逐艦を大西洋や地中海へ派遣し、現地で猛威を振るうドイツ海軍の潜水艦と激戦を繰り広げる。日本海軍は対潜能力の低さから苦戦を強いられたものの、偶に現れるイタリア海軍との戦闘では猛威を奮った。特に日本海軍の誇る酸素魚雷は一発だけでも、大型艦を無力化するだけの破壊力があったという。
無論、投入された戦力は少なく、戦況に与えた影響はたかが知れている。それでも、自ら血を流して戦う姿に、アメリカ及び連合国の世論は徐々に日本への評価を改めた。これは国際連盟脱退以降、孤立気味だった日本が国際社会に復帰する良い機会となる。加えて、アメリカの行うレンドリースの対象国となった。
このような中で、1941年6月22日にドイツはソ連へ侵攻した。現時点でのドイツ侵攻を予期しなかったソ連は各地で大損害を被る。この事態にソ連は日本との関係改善を目論み、極東方面軍の大規模な転用を狙う。また、日本との軍事同盟締結及び地上軍の派遣を求め、見返りに極東方面の領土割譲を提案する。
この予期せぬ事態に日本は検討を重ねたものの、ソ連という国家の信用度が低いことから同盟及び軍の派遣は見送られた。代わりに日ソ友好条約が締結され、満鉄経由でのレンドリース品輸送の認可と引き換えに、中華民国及び中国共産党への支援停止で合意する。これにより、中華民国は最後の武器支援国を失った。
この影響で国民革命軍は極度の武器弾薬不足に悩まされる。これで戦線の負担が軽減した日本軍は、占領地のゲリラ掃討を実施しながら駐留戦力の削減を行う。1942年初頭には20万人規模まで削減し、関東軍や本土の部隊を合わせても50万人規模まで抑えられた。これにより、遅れながらも装備の近代化に着手することができたのだ。
そのような情勢の中で、日本と中華民国の間で和平交渉が始まる。その仲介役は意外にもイギリスだった。この時期、イギリスは地中海方面や北アフリカ戦線で苦境に陥っており、日本軍の大規模な派遣を求めていたからだ。それを実現するには日中間の戦闘を終結する必要があり、水面下で和平交渉に乗り出す。
この交渉で日本は自らの主張を押し通すが、受け入れられないなら『停戦』での妥協を求めた。つまり、華北への駐留権及び満州国承認をしなくても良いから、代わりに現在の占領地で戦闘を終結させようとするものだ。それどころか、受け入れてくれるなら、揚子江沿岸部の占領地から撤収しても良いともいう。
この日本の提案に中華民国は躊躇した。なにせ、今まで日本は停戦を破って、次々と侵略していったからだ。ここでやめたとしても、次も攻められない保証はない。それに経済の中心地たる華北を失う影響は大きかった。とはいえ、これ以上の戦闘継続は難しく、犠牲ばかりが大きくなるだろう。
最終的に中華民国は渋々日本との停戦を受け入れた。当面は国内の安定に力を入れつつ、国際情勢の変化で国土奪還を目論むつもりだ。その一環として、停戦後に中国共産党への掃討作戦を強化した。国民革命軍は武器弾薬の不足と士気の低さで苦戦を強いられたが、日本から旧式兵器を購入したことで、少しづつ中国共産党は追い詰められていく。
このような中で、第二次世界大戦は転機を迎える。1943年7月16日にアメリカがドイツに宣戦布告したのだ。それとともにイギリス本土にはアメリカ陸軍航空隊が進出し、ドイツ本土への大規模昼間爆撃を開始する。ドイツ空軍は必死に抵抗したものの、圧倒的な物量相手に徐々に擦り減っていった。
また、アメリカ海軍の空母打撃群は、ヨーロッパ沿岸を荒らし回る。この頃には1000機規模の艦載機を運用でき、狙われた沿岸部の戦力は瞬く間に殲滅されてしまう。この事態にドイツ軍は沿岸防衛を強化すること自体に迫られ、苦境の続く東部戦線と本土防空戦に投じる戦力にも悪影響を与えた。
これで戦力分散を余儀なくされたドイツ軍に対し、連合国は1944年6月にフランス沿岸へ上陸を果たす。ドイツ軍は水際撃滅を狙ったが失敗し、年内までに独仏国境まで戦線が押し戻される。東部戦線でもソ連軍の猛攻が始まったことで、ドイツ軍はソ連領内から殆ど押し戻されてしまう。誰が見ても、ドイツの敗北は時間の問題だ。
これに同盟国のイタリア、ルーマニア及び共戦国のフィンランドは愛想を尽かす。これらの国々は単独で連合国に降伏したのだ。それでもドイツは確定された敗北を認めることができず、1945年5月8日に無条件降伏するまで戦争は続いた。
戦後は世界は米ソを中心とする冷戦体制となる。日本は長年のソ連との対立から、自然と西側陣営に属した。アメリカもソ連を太平洋に進出させない意味合いで日本を重宝し、中国への侵略行為には見て見ぬふりをする。
この間に日本は国内発展を遂げる。中国占領地の資源を簒奪し、西側の市場経済にアクセスできたからだ。これにより、安く原材料を手に入れつつ、工業製品を製造及び輸出することができる。これで経済規模は大きくなり、軍事に割ける金額も大きくなった。
対する中華民国は経済の低迷が続く。理由は日本の妨害工作だろう。日本は中華民国の安定を望んでおらず、裏で麻薬の密売及び貨幣の偽造等で経済を混乱させていたからだ。さらに中国共産党の残党や自立傾向にある軍閥を支援し、中華民国という国が一丸となる事態を防ぐ。
とはいえ、この日本の横暴も長く続かなかった。冷戦が終結したことで、世界は中華民国の現状に目を向けたからだ。中華民国も積極的に国際社会に訴えたことから、次第に日本への風当たりが強くなった。周辺諸国は日本との貿易を制限し始めたからだ。
これに根を上げた日本は中華民国との協議を実施し、満州国及び内蒙古自治政府を承認する代わりに、黄河以北の華北から撤退する内容での妥協案を模索した。これに中華民国は難色を示す。なにせ、中華民国にとっては満州も自国領だからだ。
だが、アメリカなどの主要大国は中華民国に受け入れるよう圧力を加える。というのも、日本への制裁は自国経済にも悪影響を与えていたからだ。当時、良くも悪くも世界第二位の経済大国だったことも影響しており、『日本がここまで譲歩したなら受け入れるべき』だと考えていた。
仮に受け入れない場合、主要大国は日本への貿易制限を解除していくだろう。不幸なことに日本は勢力圏の資源を簒奪することで、経済こそ低迷するが国家機能の麻痺はしないだろう。食糧やエネルギー資源を最低限賄えてしまうからだ。故に我慢比べとなった場合、他国任せの中華民国では勝ち目がない。
こうした事情で、中華民国は日本の提案を渋々受け入れる。ここに日中間の戦闘は正式に終結した。結果的に日本は占領地の大半を放棄したことになるが、長期間占拠することで不法占拠した満州国を我が物にできたのは大きい。また、中華民国の潜在的なポテンシャルを無為にし、脅威を減らせたことも大きいだろう。
(終わり)