高校からの帰り道、高校生の芳村湊はある出来事に居合わせてしまう。ただ呆然とすることしかできなかった彼だが、ふたたび悲劇を目撃すると、それを防ぐために駆け出すのだった。

 冬コミに出した作品のハーメルン版、短編で6000文字ほど。

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全文

 三年間で数百回は往復するだろう道でさえ物思いに耽るのは、よほど周囲に意識を向けない人間のすることだ。だが、そういう人間だからこそ、己を空っぽにして歩く者が見落とす変化に気づくこともある。芳村湊は駅前の横断歩道を横切ろうとしていた。皆は東の先にある大都会を例に挙げて、国中駅は都会ではないと卑下するが、駅ナカの商業施設がある時点で立派に都会だろう、と言って反論している。そんな彼であるからLEDの光が移り変わって生じた僅かな変化を見逃さなかった。

 風化した石碑がある他は手入れもなく草が伸びるままにされている環状交差点の中心に人がいた。雑草の中に直立し、顔だけを空へ向けている。都会で暮らす彼からすればいわゆる変な人に出くわすのは慣れた出来事であった。関わりを持たず無視を決め込むのが最善。その心得に従い一度目を背けた。とはいえ現実なのかを確かめるため、入口のあたりでもう一度だけ振り向いた。

 女性だった。黒いズボンとほんの少しだけふわふわした上着という格好でぴくりとも姿勢を変えない。まるで道端に落ちた綺麗な鳥の羽のようだった。とにかく、あれは幻ではなく本物だと満足したが髪にふわりと何かが触れ、それは道路や建物にも等しく降りかかり始めた。車がワイパーを動かしたことに気づいて肘にかけた傘を手に取った。

「あ……め、でっすよ?」

 傘を差し出しながら言うには拙く不格好な言葉と動きで目すら合わせられない。かといって湊は彼女を恐る恐る見た。背は同じくらいで髪は長くなく女性としては目立たない服装をしている。きらびやかな同級生に囲まれている彼にとっては、その姿はある意味で新鮮味があった。

「っ! ぁ、ありがとうございます……」

 女性はわずかに歯ぎしりを起こしながらも彼に言った。湊からすればマトモに会話が通じる人間であったとの安堵が大半を占めていたにせよ、男の部分は彼女の容姿を見逃さなかった。顔は重大なものを目撃したかのように青ざめていて、ピアスや化粧はしていないが、空から落とされた雫とは別の物体が頬に流れようとしている。はっきりと見えた。

「と、とりあえず屋根のある場所に」

 そもそも湊はあの女性がこのままずぶ濡れになるのはまずいと直感してタクシーやバスに邪魔者扱いされながら雑草の孤島に踏み入ったのだ。なのに彼女はふるふると拒んだ。漠然とした表情なのは変わらず、そうこうしているうちに感情の塊が腫れた頬を伝い流れてゆく。肘がピンと張られ両手でかたく拳をつくりながら俯いている。背が少しでも低ければ表情すら分からなかっただろう。湊は会話が通じると判断したのを後悔し投げ出したくなった。右半身は雨に打たれ、荷物も濡れはじめていた。とはいえ、今更捨て置けるはずもなく女性に傘を伸ばす左手を引き込めない。制服を着た右半身は勢いを増した雨に晒され、荷物も濡れて冷えていく。

「できないっ……! にげたくない……」

 歯からかちかちと音が鳴る。伸ばしていた両肘が曲げられて体の前でこすり合わせられる。単に触れるのではなく掌から肘や肩へと無法則に移り動いていく。

「そんなこと言っ……」

 湊はとうとう我慢できなくなり苛立ちが表に出た。多少強引にでも手を掴もうとした。しかし、体が凍りついたように静止した。続いて、金属が悲鳴を上げる音が遠くで伸び、誰かの叫びが雨に滲んで聞こえた。ほとんど間を置かずに鉄筋のビルをハンマーにして車を押し潰したような衝撃と、擦り雑ぜられていく過程が鮮明に想起できる邪悪がどよめきながら消えた。

「はーっ、私のせいなんだ……」

 彼女はとうとう立っていられず、膝を曲げてうずくまった。一方、湊の耳にホームからの悲鳴や目の前の嗚咽は聞こえず、ずいぶん後になってサイレンのけたたましさで息を取り戻したが、彼女の姿はなかった。

 

 無心で通り過ぎていたのが注意を払いながら歩くようになった。起こった変化を言えば駅に着く時間が一分遅れただとか、周りを行く人や車のパターンが頭に入るくらいのもので、湊はあの日の現象を幻覚や夢だといった空想的なものとして処理することにした。

「ありがとうございました~」

 駅ナカのパン屋を出ると、湊はあえて階段を登ってホームに出る。端寄りの場所は人があまり居ないのでゆっくりパンを食べられるのだ。最近の習慣である。心地よい風が吹き抜けているのは線路とホームが高架上にあるからで、車窓からは県境の丘陵地がはっきりと見える。

やたら大きいリュックから袋を取り出し、生地にブルーベリーが練り込まれているパンを味わう。上部には丸い実がそのまま乗せられており、焼かれたからか甘みが増している。彼のお気に入りだった。パンが入っていた包み紙をポケットに入れたところで埃にかぶった箱が電車の通過を告げて鳴る。体を傾けて線路の奥に目を向けると、すぐに見慣れた先頭車両が見えてくる。橙色のラインが引かれた鉄の物体が五百人以上の命を乗せている。

 湊の視界の端で、男がホームの端へにじるように進み、黄線のすぐ手前で立ち止まった。徐々に迫る物体と自分の足元へ交互に視線を向けていたのだが、不意に足ががくがくと震えはじめた。異変を察知したところで男は後に引けない状態に気づいた。様々に経験してきた屈辱の螺旋が降りかかる。意思や自己に反して身体は徐々に前へ引っ張られていく。

鋼鉄の塊が重い警告を鳴らしてホームに侵入してくる。思わず小さく肩を挙げてしまうほどの音で、湊はようやく男を認識した。そしてすぐに、男の背後に生える青黒く禍々しい渦を見た。

 彼は交差点での悲劇を思い出した。電車が人間を引き潰していく音がフラッシュバックする。死の意味も分からなかった頃に見た、火葬場で燃やされた曾祖母の破片。しわしわになって息絶えた祖父。ブルーシートで覆われたホームと、救急隊員。いまにも目の前で終わりを迎えようとしている男。心臓が忙しなく鳴る。息が詰まり何もできなくなる感覚に苛まれた。

 わずかな硬直のあと、ほぼ同時に足先が宙に浮く。男の左足がホームからはみ出す。なんと湊は憂鬱に打ち勝ち、もがきゆに地面を蹴って走り出していた。手提げ袋やリュックを椅子や壁に放り投げて文明が産んだ偉大な交通機関と対決した。死に至る場面を目撃したうえで無視するのは、人間として許せなかった。とはいえ歴然な差がある。通過電車は八〇キロ以上で侵入する、とても間に合わない。とうとう男の上半身が傾いていく。その時、湊は背後の渦に飛び込んでいく人を見た。刹那、渦が霧散して電車が湊のそばの空気を切った。男は線路へ落ちる直前の場所に倒れ込んでいた。

 ありえない現象に湊は膝を落として困惑した。まず、男の背後に生えていた青黒い渦について。そして、渦に飛び込んだ人について。幻だと思いたかったが、落ち着いていく鼓動ともみあげから落ちる冷や汗は「現実だ」とこれでもかと言い聞かせてくる。膝も視線も地面に落ちたままで立ち上がれない。そんな様子だから彼に声をかける者がいた。

「大丈夫ですかっ!」

 そう言われた湊は斜め後ろを振り返る。女性というのは声の印象通りだった。彼は大きく息を吐き、視線を床に戻して説明しようとした。

「向こうに倒れてる男が……」

その男は駅員によって担架に乗せられようとしている。

「線路に飛び込もう、と……」

 そこで、あることに気づいた湊は途中で言葉を止めて、再び女性を見た。姿ではなく顔を。

「駅前で会いましたよね?」

「あの時はすみませんでした!」

 ほぼ同時に言葉が交差した。女性の方は頭を深く下げた。湊は「謝るようなことでは」と言ったものの、彼女はなかなか姿勢を戻そうとしない。

「傘を差し伸べてくれたのに、ほぼ無視してしまいました。」

「いいですよ、錯乱に陥ったのも納得できたし、僕もあれには堪えましたから……」

 死に遭遇したことは、湊自身に少なくない負荷を及ぼしていた。死ぬことに敏感になり殺人だとか心中やら飛び降りなどの報道を見聞きすると、内臓が押しつぶされるような閉塞に襲われるようになった。

「分かります。だからこそ謝りました」と言い終えて、彼女は顔を上げた。

 男を乗せた担架が運ばれていく。力感なく横たわる彼を見送ると、疑問の数々が湊の脳内で巻き起こった。

「飛び降りようとしていたのは見てましたか」

「ええ。危ないと考えて、あそこを降りて駅員さんを呼びに行きました」

 階段を手で指しながら女性は言う。湊にとっては肝心な疑問点が二つあった。それを確かめる気持ちしか頭になく、彼女の言葉は耳から耳へ突き抜けていく。できるかぎり真剣な眼差しを向けて口を開いた。

「あの、青黒い渦を見たんです」

 その言葉で、女性の表情は一変した。力なく座り込んでいる高校生が、自身にまとわり付く存在をはっきりと視認している。そのうえであの男を助けようと試みていたのだ。

「あの正体を教えてください」

 膝に着いた埃を手で払いながら立ち上がり、湊は女性に迫った。「青黒い渦」に対して女性はあからさまに反応をしめしていたから、多少無理やりにでも問おうとした。ただし、それは興味による行動ではなく、圧倒的な恐怖と憂鬱の撃鉄を落としたあの怪物をここで知らなければ、次に遭遇すれば命を失うと危惧したためだった。濁り粘ついた蝋のような流体が髑髏を巻き、男を死へ、死へと追い詰めていた。あの存在を認めた途端に動悸を起こし、内臓はかき乱された。あの際は救おうとする一心で打ち勝てたが、自分が対象にされた場合は負けてしまうと直感が叫んでいる。

「……人を絶望に導くものです」

「絶望して、どうなりますか」

「自殺したり、罪を犯したりします」

 湊ははっとする。渦によって湧きあがった感情はまさしく絶望そのものであった。

「僕はあの場にいただけでしたが、渦を見た途端に心臓が早鐘を打って、息が詰まりました」

「渦は周囲にも影響を与えますから」

 湊の言葉を聞くにつれてどうやらこの子は本物らしい。との確信が彼女のなかで深まっていく。

「渦の中に飛び込んだのは誰ですか」

 あぁ、と彼女は気づかれずに漏らす。あの日に傘を差し伸べてくれた人と、こうして打ち明ける人。これが同じ人間だというのは、自分の知見からすれば極めて稀な幸運なのであるから。

「私です」

「そうですか……」

 渦は、存在するだけで周囲の人間を絶望に追い込むものである。自分でさえ即座に死を想起するほどだったのに、青黒い渦の中心へ飛び込む。その勇気は並大抵ではないはずだ、と湊は考えた。あらためて彼女を見る。同じくらいの身長の、敬語で話す落ち着いた女の子。顔色は明るく、頬に涙はなく、腕も震えていない。意思のある眼差しがこちらに向けられている。

「実は、渦が見えたと言う人はあなたが初めてです」

 その姿からは安堵と喜びが読み取れた。すぐ「少し長くなるので」と誘われ、二人はホームのベンチに腰掛けるのだった。

「まず自己紹介ですよね」

 女性がさらりと言う。湊はとても気まずくなった。「そういえば……」とだけ呟くが、その先が言えなかった。

「透山志穂といいます。十八歳で、家は青梅の方に」

「僕は芳村湊で、小金井が最寄りです、十七歳」

「……年下なの?」

「まぁ」

 年下だと知って驚いたためか、透山の敬語がその一瞬だけ解かれる。高校生だとは知っていたが、ひたむきな善性を見るに同い年か、もしかすれば年上かもしれないと予想していた。

「どこ高です?」

「最寄りのところです」

 今日は昼下校の日程で、図書館で本を借りてから帰路に着いた。いつものように駅でパンを食べていたら、今にこうなったのだ。前回のあれも下校中の出来事である。

「透山さんはどの高校ですか?」

「地元の高校」

 透山はさらりと答える。湊は続けた。

「今日の授業は?」

「途中で抜けてきました」

 平然と言うので、湊は「え」と漏らして顔を見合わせる。高校の授業から抜け出すなど信じられなく、度胸と意思の強さが垣間見えた。少なくとも彼には真似できない行動だった。

「えっと、渦が出現する日は週に二、三回。その度に神託——としか形容できないものが来ます。それに従って色々な場所に行く……というわけでです。一番遠かったのは千葉のあたりでした」

「大変ですね」

「実際、とっても大変で」

 彼女はため息を吐きながら言い、表情が曇った。渦の恐ろしさは先ほど非常に苦しんで湊は理解したつもりであった。しかも学校に通いながらそれを週に数回遠出のうえでこなす。つまり、渦に飛び込むのだ。

「大丈夫なんですか?」

「大丈夫、三年前から変わらず続けられていますから。でも……」

 透山は座ったまま前に倒れ込む。膝に胸を乗せながら両手で頭を抱えた。しばらく沈黙しながら深呼吸を繰り返した。それは先日の漠然とした姿を想起させ、湊の心もわざついてくる。

「人を救えなかったのは、あなたに傘を差し伸べられた日が初めてでした。青黒い渦、人を絶望のどん底に叩き落とす憎たらしい、あれ。飛び込みましたが、私にはどうすることも……」

 あの渦は何度も、何度も飛び込んだ。その度に打ちのめされ傷つくばかりだった。とうとう苦しさを瞬きで隠せなくなり、渦を目前にして涙が溢れてきた。

「渦が消えるともう、介入は不可能で……飛び込むと、私のほうの心まで引きずられそうになるんです。とにかく、人を救えなかった、彼女は次の電車で死んじゃう、私のせいだった……」

 それからも、両手で涙を拭いながら透山は苦しみを吐き出し続けた。湊はおよそ介入不可能に思える個人の自殺を(仕組みは全く理解できないが)懸命に防ごうとした彼女、失敗した責任を抱えて嗚咽する姿におよそ彼自身には無いものをみた。まず、役目がある。次に、きっとより行動的で善良。何より思いやりのある人なのだろうと。

「なら、透山さんの役割は……」

「繋命者」

透き通った声で告げられる。

「……あの人にはそう言われました。私は『渦入り』だって」

 そう言いながら起き上がった。一息おいて湊の方を向く。涙の跡がくっきりと見えるが、曇りは消えて晴れやかだった。

「恥ずかしい姿を見せましたが、私は芳村君と出会えて嬉しいですよ。繋命者は組織を持たないので、今までずっと独りでした」

 ますます湊は尊敬と畏怖を覚えた。彼女の活動には一切の支援もないのだ。そのなかで三年間人を救い続けたのだから。

「唯一知り合いだった方には『続けていれば現れる』と言われていました。だから渦の中に飛び込んだのは誰、と芳村君に訊かれた時は安心しました。あの親切な人が本当に……と」

 瞳をきらめかせた透山ははっきりと美しく湊の網膜に写った。彼女と近づく意味……それは青黒い渦に接近し、関与していく選択を取るに等しく、普段の状態でかつ相手に特段言及することもなければ絶対に拒否するものだった。しかしながら、彼は既に透山に対して無いものを見る結晶化作用を抱くほどの希望を見出していた。

「お願いがあります。私の繋命者としての活動を支援していただけませんか?」

 湊は迷いなく頷く。怖さは消えない。しかし渦が見えると分かった以上、見て見ぬふりはできないのだった。




 読んでいただきありがとうございました。
 この作品は、とにかく自殺を扱いたくてしょうがない意思に駆られて執筆しました。そうは言っても止める内容ですが。
 「青黒い渦」は体験に基づいています。過去に自殺未遂の未遂のようなことを断行した際、思考は死にたくてたまりませんでした。それが実行するにあたり「死」が現実となって訪れると、わァっとした恐怖に包まれて、それで終わりを免れたのです。
 つまり、私を「死へ、死へと追い詰めていた」(原文ママ)何かしら(小説上の渦のようなもの)が急に消えたことになります。これは超自然的な力(繋命者など)が関わっていたのではないか? と疑問を抱いて書き起こしたのが『渦入りの繋命者』になります。

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