第一話
プロローグ:祈りが剣だったころ
その戦場には、神がいた。
少なくとも、そう信じられていた。
空は灰色で、雲は低く垂れ込め、湿った風が血と鉄の匂いを運んでくる。踏み固められた土は赤黒く、ところどころに砕けた石像の破片が転がっていた。異教の神殿だったものだ。かつて祈りが捧げられ、歌が響いていた場所は、今や破壊の痕跡を誇示するための舞台に変わっている。
彼は、その中心に立っていた。
聖職者の装束。
だが、白ではない。
返り血と煤に汚れ、もはや元の色を思い出すこともできない。
右手には棍棒。
聖職者兼兵士に与えられる、祝福を受けた武器。
左手には盾。
教義の紋章が刻まれ、守護と服従を同時に意味する印。
そして唇は、絶えず動いていた。
祈っていたのだ。
神の名を唱え、教義の句をなぞり、異教徒の魂が正しく裁かれることを願う。
その言葉は、魔法でもあった。
奇蹟でもあった。
祈りが終わるたび、敵は崩れ落ちる。
ある者は炎に包まれ、ある者は膝を折り、ある者は正気を失って地面を掻きむしった。
それを見て、彼は疑問を抱かなかった。
――これが正しい。
――神が望んでいる。
そう教えられてきたからだ。
異教徒は、人ではない。
少なくとも、「正しい信仰を持つ人間」ではない。
獣人や亜人は、なおさらだった。
神に選ばれた者が剣を振るい、祈りを捧げ、世界を正しい形に戻す。
それが聖戦だった。
彼は、優秀だった。
戦果は数え切れない。
獣人の集落を制圧し、異教の司祭を討ち、抵抗する者を見せしめとして処刑した。
そのたびに、上官は彼を称え、教会は祝福を与えた。
「神はお前を見ている」
「よくやった、信仰深き者よ」
その言葉を、彼は疑わなかった。
――疑えなかった。
転機は、ある夜だった。
戦場から少し離れた場所。
臨時に設けられた野営地で、彼は一人の捕虜を見張る役目を与えられていた。
獣人の少年だった。
年は、十にも満たないだろう。
耳と尾は垂れ下がり、毛皮は泥と血で汚れている。
武器は持っていない。
抵抗する力もない。
それでも、命令は命令だった。
「夜明けまで生かしておけ」
「尋問が終わったら、処理する」
処理。
その言葉に、彼は何の感情も抱かなかったはずだった。
少年は、震えていた。
寒さのせいか、恐怖のせいか、それとも両方か。
彼は、何となく水を差し出した。
善意ではない。
ただ、死なれると面倒だと思っただけだ。
少年は、水を飲みながら、彼を見上げた。
その目が、彼の中で何かを引っかけた。
恐怖はある。
だが、憎しみがない。
怯えながらも、少年は彼に問いかけた。
「……あなたは、神の人?」
彼は、即答した。
「そうだ」
少年は、少し考えてから言った。
「じゃあ……
神さまは、ぼくが悪いって言ってるの?」
その問いに、彼は詰まった。
教義は、完璧だった。
異教徒は誤りであり、獣人は劣った存在であり、正しき信仰のために排除されるべきだ。
だが、目の前の少年は、ただ生きているだけだった。
名前も知らない。
罪も聞かされていない。
ただ、「獣人として生まれた」という理由だけで、ここにいる。
「……そうだ」
彼は、そう答えた。
それしか、言えなかった。
少年は、少し笑った。
諦めたような、どこか安堵したような笑みだった。
「そっか」
それだけ言って、少年は目を閉じた。
夜明け前、別の兵士が来て、少年は連れて行かれた。
彼は、それを止めなかった。
止めなかったが――
その後、祈りの言葉が、喉につかえるようになった。
神の名を唱えるたび、あの問いが蘇る。
――神さまは、ぼくが悪いって言ってるの?
戦果を上げれば上げるほど、疑問は消えなかった。
むしろ、はっきりしていった。
神は、何も言っていない。
語っているのは、いつも人間だ。
教会で。
戦場で。
裁定の場で。
神の名を使って、人が人を裁いている。
やがて聖戦は終わり、彼は「功績ある聖職者」として教会に戻った。
神父の地位と、小さな教会を与えられた。
周囲は、彼を尊敬した。
子どもたちは祝福を求め、貧民は施しを乞い、兵士たちは酒の席で武勇談を聞きたがった。
彼は、どれにも深入りしなかった。
祈りは捧げる。
儀式も執り行う。
だが、教会の中枢とは距離を置いた。
信仰を失ったわけではない。
だが、神の名で人を裁くことが、どうしてもできなくなっていた。
ある日、彼は冒険者登録をした。
理由を問われて、「なんとなく」と答えた。
それ以上、正確な言葉を持っていなかった。
本当は、分かっていた。
――もう一度、
――人が壊れる場所を見るためだ。
祈りで止めるのではなく、
剣で従わせるのでもなく、
ただ、命として向き合うために。
彼はまだ、この時点では知らない。
これから先、
獣人、奴隷、差別、契約、制度、沈黙――
数え切れない歪みと向き合うことになるということを。
ただ一つ、確かなのは。
この日を境に、
彼は祈りを疑い始めた。
それが、
守護者の始まりだった。