まだ、生きてる   作:5734589

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祈りが剣だったころ

第一話

 

プロローグ:祈りが剣だったころ

 

その戦場には、神がいた。

少なくとも、そう信じられていた。

 

空は灰色で、雲は低く垂れ込め、湿った風が血と鉄の匂いを運んでくる。踏み固められた土は赤黒く、ところどころに砕けた石像の破片が転がっていた。異教の神殿だったものだ。かつて祈りが捧げられ、歌が響いていた場所は、今や破壊の痕跡を誇示するための舞台に変わっている。

 

彼は、その中心に立っていた。

 

聖職者の装束。

だが、白ではない。

返り血と煤に汚れ、もはや元の色を思い出すこともできない。

 

右手には棍棒。

聖職者兼兵士に与えられる、祝福を受けた武器。

左手には盾。

教義の紋章が刻まれ、守護と服従を同時に意味する印。

 

そして唇は、絶えず動いていた。

 

祈っていたのだ。

 

神の名を唱え、教義の句をなぞり、異教徒の魂が正しく裁かれることを願う。

その言葉は、魔法でもあった。

奇蹟でもあった。

 

祈りが終わるたび、敵は崩れ落ちる。

ある者は炎に包まれ、ある者は膝を折り、ある者は正気を失って地面を掻きむしった。

 

それを見て、彼は疑問を抱かなかった。

 

――これが正しい。

――神が望んでいる。

 

そう教えられてきたからだ。

 

異教徒は、人ではない。

少なくとも、「正しい信仰を持つ人間」ではない。

獣人や亜人は、なおさらだった。

 

神に選ばれた者が剣を振るい、祈りを捧げ、世界を正しい形に戻す。

それが聖戦だった。

 

彼は、優秀だった。

 

戦果は数え切れない。

獣人の集落を制圧し、異教の司祭を討ち、抵抗する者を見せしめとして処刑した。

そのたびに、上官は彼を称え、教会は祝福を与えた。

 

「神はお前を見ている」

「よくやった、信仰深き者よ」

 

その言葉を、彼は疑わなかった。

 

――疑えなかった。

 

転機は、ある夜だった。

 

戦場から少し離れた場所。

臨時に設けられた野営地で、彼は一人の捕虜を見張る役目を与えられていた。

 

獣人の少年だった。

年は、十にも満たないだろう。

耳と尾は垂れ下がり、毛皮は泥と血で汚れている。

 

武器は持っていない。

抵抗する力もない。

 

それでも、命令は命令だった。

 

「夜明けまで生かしておけ」

「尋問が終わったら、処理する」

 

処理。

その言葉に、彼は何の感情も抱かなかったはずだった。

 

少年は、震えていた。

寒さのせいか、恐怖のせいか、それとも両方か。

 

彼は、何となく水を差し出した。

善意ではない。

ただ、死なれると面倒だと思っただけだ。

 

少年は、水を飲みながら、彼を見上げた。

 

その目が、彼の中で何かを引っかけた。

 

恐怖はある。

だが、憎しみがない。

 

怯えながらも、少年は彼に問いかけた。

 

「……あなたは、神の人?」

 

彼は、即答した。

 

「そうだ」

 

少年は、少し考えてから言った。

 

「じゃあ……

 神さまは、ぼくが悪いって言ってるの?」

 

その問いに、彼は詰まった。

 

教義は、完璧だった。

異教徒は誤りであり、獣人は劣った存在であり、正しき信仰のために排除されるべきだ。

 

だが、目の前の少年は、ただ生きているだけだった。

 

名前も知らない。

罪も聞かされていない。

ただ、「獣人として生まれた」という理由だけで、ここにいる。

 

「……そうだ」

 

彼は、そう答えた。

 

それしか、言えなかった。

 

少年は、少し笑った。

諦めたような、どこか安堵したような笑みだった。

 

「そっか」

 

それだけ言って、少年は目を閉じた。

 

夜明け前、別の兵士が来て、少年は連れて行かれた。

彼は、それを止めなかった。

 

止めなかったが――

その後、祈りの言葉が、喉につかえるようになった。

 

神の名を唱えるたび、あの問いが蘇る。

 

――神さまは、ぼくが悪いって言ってるの?

 

戦果を上げれば上げるほど、疑問は消えなかった。

むしろ、はっきりしていった。

 

神は、何も言っていない。

語っているのは、いつも人間だ。

 

教会で。

戦場で。

裁定の場で。

 

神の名を使って、人が人を裁いている。

 

やがて聖戦は終わり、彼は「功績ある聖職者」として教会に戻った。

神父の地位と、小さな教会を与えられた。

 

周囲は、彼を尊敬した。

子どもたちは祝福を求め、貧民は施しを乞い、兵士たちは酒の席で武勇談を聞きたがった。

 

彼は、どれにも深入りしなかった。

 

祈りは捧げる。

儀式も執り行う。

だが、教会の中枢とは距離を置いた。

 

信仰を失ったわけではない。

だが、神の名で人を裁くことが、どうしてもできなくなっていた。

 

ある日、彼は冒険者登録をした。

 

理由を問われて、「なんとなく」と答えた。

それ以上、正確な言葉を持っていなかった。

 

本当は、分かっていた。

 

――もう一度、

――人が壊れる場所を見るためだ。

 

祈りで止めるのではなく、

剣で従わせるのでもなく、

ただ、命として向き合うために。

 

彼はまだ、この時点では知らない。

 

これから先、

獣人、奴隷、差別、契約、制度、沈黙――

数え切れない歪みと向き合うことになるということを。

 

ただ一つ、確かなのは。

 

この日を境に、

彼は祈りを疑い始めた。

 

それが、

守護者の始まりだった。

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