第十六話
無名
――守るとは、名を捨てることだった
彼の名は、使われなくなった。
指名手配されたわけでもない。
異端として糾弾されたわけでもない。
ただ、便利ではなくなっただけだ。
町の掲示板から、
彼の噂は消えた。
酒場の話題にも、
街道の注意喚起にも、
もはや出てこない。
「拾う人」は、
制度に置き換えられた。
数字と基準と割り当てが、
彼の代わりをする。
――それで、十分だった。
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近づけない距離
彼が近づくと、
人は一歩、下がる。
恐れているわけではない。
警戒しているわけでもない。
期待していない。
それが、
一番、堪えた。
かつて、
彼に向けられていたのは、
過剰な希望だった。
今は、
最初から、
何も向けられない。
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声なき声
それでも、
夜になると、
彼は歩く。
街の外。
灯りの届かない場所。
制度の目が、
届かないところ。
そこには、
まだ、声がある。
言葉にならない声。
助けて、とすら言えない呼吸。
彼は、
それを聞き分けるようになっていた。
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ひとり
ある夜、
倒れている人影を見つける。
男か女かも、
最初は分からなかった。
汚れすぎていて、
年齢も、
種族も、
判別できない。
彼は、
何も言わずに、
脈を取る。
まだ、生きている。
それだけで、
十分だった。
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何もしないという行為
彼は、
その人を、
町へ連れて行かない。
連れて行けば、
基準に照らされる。
基準に合わなければ、
終わりだ。
彼は、
森の奥へ運ぶ。
古い倒木の陰。
誰も、
見つけない場所。
そこで、
火を起こす。
大きくもなく、
長くもない火。
真似できない程度の、
小さな手間。
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手
彼は、
傷を洗う。
縫う。
雑で、
不格好で、
教本にも載らないやり方。
それでも、
手は、
震えなかった。
震えない自分に、
彼は驚く。
慣れたのではない。
諦めたのだ。
救えないことを。
続かないことを。
評価されないことを。
それでも、
目の前の肉体が、
冷えていくのだけは、
放っておけない。
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名前を聞かない理由
夜明け前、
その人が、
目を覚ます。
「……ここは?」
彼は、
答えない。
答えれば、
場所が特定される。
特定されれば、
模倣される。
模倣されれば、
また、切り捨てが始まる。
彼は、
水を渡すだけだ。
その人は、
それ以上、
何も聞かなかった。
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去り際
朝。
彼が目を覚ますと、
その人はいない。
足跡が、
一方向にだけ、
残っている。
彼は、
追わない。
追えば、
関係になる。
関係になれば、
期待が生まれる。
期待は、
制度の種だ。
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無名の意味
彼は、
自分の荷を背負い、
再び歩き出す。
誰にも知られず、
記録も残らず、
物語にもならない。
それでも、
昨夜の呼吸は、
確かに、
ここにあった。
それだけで、
この一日は、
存在したと言える。
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弱者という言葉の外側
彼は、
考える。
弱者とは、
誰か。
獣人か。
奴隷か。
貧者か。
違う。
選ばれなかった瞬間の、人間だ。
だから、
守護は、
属性に向かわない。
瞬間に、
向かう。
誰にも定義されない、
一瞬の崩れ。
そこに、
手を伸ばす。
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夜が来る
日が落ちる。
また、
誰かが、
倒れるだろう。
彼は、
それを、
止められない。
だが、
見なかったことにも、
しない。
それが、
彼に残された、
唯一のやり方だった。