まだ、生きてる   作:5734589

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摩耗

第十八話

 

摩耗

 

――正しさより先に、身体が終わっていく

 

季節が、いくつか過ぎた。

 

正確な数は、

彼自身にも分からない。

 

数える理由が、

もうなかった。

 

暦も、

祭りも、

裁定の続きも、

彼の生活からは、

静かに剥がれ落ちていった。

 

残ったのは、

夜と、

呼吸と、

触れれば分かる体温だけだった。

 

 

手の違和感

 

最初に異変を告げたのは、

右手だった。

 

朝、

荷を持ち上げようとして、

一瞬、

力が抜ける。

 

痛みではない。

痺れでもない。

 

遅れだった。

 

思考より、

ほんのわずかに、

手が遅れる。

 

彼は、

それを、

気のせいだと思った。

 

そう思いたかった。

 

 

失敗

 

その夜、

縫合の途中で、

糸を落とした。

 

乾いた音が、

闇に吸われる。

 

拾い上げようとして、

指が、

うまく動かない。

 

苛立ちは、

なかった。

 

ただ、

理解が、

遅れてやってきた。

 

――ああ、

――始まった。

 

 

時間の重さ

 

彼は、

手当てを終え、

火を消し、

一人で座る。

 

息を整えながら、

考える。

 

これから先、

自分は、

何人を、

「失敗させる」だろうか。

 

救えないのではない。

手が届かなくなる。

 

それは、

選択ではない。

 

拒否でも、

決断でもない。

 

身体の問題だ。

 

 

弱くなる側へ

 

ある日、

彼は、

自分が転んだことに、

すぐ気づけなかった。

 

地面に手をつき、

膝が痛む。

 

それだけのこと。

 

だが、

立ち上がるまで、

少し時間がかかった。

 

呼吸が、

乱れる。

 

彼は、

笑いそうになる。

 

――ついに、

――こちら側か。

 

守る側から、

守られる側へ。

 

いや。

守られることは、

ない。

 

 

声の変化

 

それでも、

声は、

聞こえてしまう。

 

ただ、

以前より、

遠い。

 

夜の奥で、

かすれる。

 

彼は、

全てに応えられない。

 

応えないことが、

増える。

 

それは、

怠慢ではない。

 

限界だった。

 

 

目撃者の影

 

ある夜、

遠くで、

火の気配を見る。

 

大きくない。

真似しにくい、

小さな火。

 

彼は、

近づかない。

 

近づけば、

干渉になる。

 

干渉は、

連鎖を生む。

 

だが、

胸の奥で、

理解する。

 

――あの少女だ。

 

何もしていない。

制度も、

救済も、

語っていない。

 

ただ、

「見捨てなかった夜」を、

一つ、

過ごしただけだ。

 

それでいい。

 

それ以上は、

要らない。

 

 

震える指

 

別の日、

彼は、

針を持つ手が、

僅かに震えていることに、

はっきりと気づく。

 

止めようとすれば、

余計に揺れる。

 

意識から、

外す。

 

そうしなければ、

続けられない。

 

縫い目は、

歪んだ。

 

だが、

止血はできている。

 

生きる分には、

足りる。

 

それで、

いい。

 

 

自分が余剰になる日

 

彼は、

ふと思う。

 

――自分は、

――いつ、

――余剰になる?

 

動けなくなったとき。

手が、

完全に使えなくなったとき。

 

そのとき、

自分を、

拾う者は、

いない。

 

それを、

悲しいとは、

思わなかった。

 

むしろ、

整っていると、

感じた。

 

 

夜の終わり方

 

その夜、

彼は、

火を起こさなかった。

 

疲れていた。

 

森の中で、

背を預け、

目を閉じる。

 

眠る前、

最後に思ったのは、

救った数でも、

失った顔でもない。

 

まだ、

 手が、

 温かい。

 

それだけだった。

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