第十八話
摩耗
――正しさより先に、身体が終わっていく
季節が、いくつか過ぎた。
正確な数は、
彼自身にも分からない。
数える理由が、
もうなかった。
暦も、
祭りも、
裁定の続きも、
彼の生活からは、
静かに剥がれ落ちていった。
残ったのは、
夜と、
呼吸と、
触れれば分かる体温だけだった。
⸻
手の違和感
最初に異変を告げたのは、
右手だった。
朝、
荷を持ち上げようとして、
一瞬、
力が抜ける。
痛みではない。
痺れでもない。
遅れだった。
思考より、
ほんのわずかに、
手が遅れる。
彼は、
それを、
気のせいだと思った。
そう思いたかった。
⸻
失敗
その夜、
縫合の途中で、
糸を落とした。
乾いた音が、
闇に吸われる。
拾い上げようとして、
指が、
うまく動かない。
苛立ちは、
なかった。
ただ、
理解が、
遅れてやってきた。
――ああ、
――始まった。
⸻
時間の重さ
彼は、
手当てを終え、
火を消し、
一人で座る。
息を整えながら、
考える。
これから先、
自分は、
何人を、
「失敗させる」だろうか。
救えないのではない。
手が届かなくなる。
それは、
選択ではない。
拒否でも、
決断でもない。
身体の問題だ。
⸻
弱くなる側へ
ある日、
彼は、
自分が転んだことに、
すぐ気づけなかった。
地面に手をつき、
膝が痛む。
それだけのこと。
だが、
立ち上がるまで、
少し時間がかかった。
呼吸が、
乱れる。
彼は、
笑いそうになる。
――ついに、
――こちら側か。
守る側から、
守られる側へ。
いや。
守られることは、
ない。
⸻
声の変化
それでも、
声は、
聞こえてしまう。
ただ、
以前より、
遠い。
夜の奥で、
かすれる。
彼は、
全てに応えられない。
応えないことが、
増える。
それは、
怠慢ではない。
限界だった。
⸻
目撃者の影
ある夜、
遠くで、
火の気配を見る。
大きくない。
真似しにくい、
小さな火。
彼は、
近づかない。
近づけば、
干渉になる。
干渉は、
連鎖を生む。
だが、
胸の奥で、
理解する。
――あの少女だ。
何もしていない。
制度も、
救済も、
語っていない。
ただ、
「見捨てなかった夜」を、
一つ、
過ごしただけだ。
それでいい。
それ以上は、
要らない。
⸻
震える指
別の日、
彼は、
針を持つ手が、
僅かに震えていることに、
はっきりと気づく。
止めようとすれば、
余計に揺れる。
意識から、
外す。
そうしなければ、
続けられない。
縫い目は、
歪んだ。
だが、
止血はできている。
生きる分には、
足りる。
それで、
いい。
⸻
自分が余剰になる日
彼は、
ふと思う。
――自分は、
――いつ、
――余剰になる?
動けなくなったとき。
手が、
完全に使えなくなったとき。
そのとき、
自分を、
拾う者は、
いない。
それを、
悲しいとは、
思わなかった。
むしろ、
整っていると、
感じた。
⸻
夜の終わり方
その夜、
彼は、
火を起こさなかった。
疲れていた。
森の中で、
背を預け、
目を閉じる。
眠る前、
最後に思ったのは、
救った数でも、
失った顔でもない。
まだ、
手が、
温かい。
それだけだった。