最終話
まだ、生きている
――終わりは、完成ではなかった
その朝、
彼は、
起き上がれなかった。
理由は、
分からない。
痛みがあるわけでも、
怪我をしたわけでもない。
熱も、
悪寒もない。
ただ、
身体が、
地面から離れることを、
拒んでいた。
⸻
受け取る側
どれくらい、
そうしていたのか。
時間は、
もう彼の尺度では、
測れなかった。
視界の端に、
影が差す。
誰かが、
近づいてくる。
彼は、
声を出そうとして、
やめた。
声を出せば、
関係が生まれる。
関係は、
期待になる。
期待は、
刃だ。
⸻
手
影の主は、
黙っていた。
そして、
彼の肩に、
何かを掛けた。
古い外套。
重くも、
新しくもない。
誰のものか、
分からない。
だが、
確かに、
温度があった。
彼は、
それを、
振り払わなかった。
⸻
少女ではない誰か
視線を上げると、
そこにいたのは、
若くもなく、
老いてもいない人間だった。
男か女かも、
はっきりしない。
ただ、
目が、
静かだった。
「……無理に、
動かなくていい」
そう言われた。
命令でも、
哀れみでもなかった。
事実の提示だった。
⸻
拒否しない理由
彼は、
外套に包まれたまま、
目を閉じる。
拒否する理由が、
見つからなかった。
受け取ることが、
次の制度を生むなら、
拒否すべきだった。
だが、
これは――
制度にならない。
一度きりで、
名前も、
意味も、
残らない。
それが、
分かった。
⸻
何も語られない時間
その人は、
火を起こした。
大きくない火。
慣れていない手つき。
それでも、
十分だった。
彼は、
久しぶりに、
完全に眠った。
夢は、
見なかった。
⸻
目覚め
目を覚ましたとき、
火は、
すでに消えていた。
外套は、
丁寧に畳まれ、
彼の脇に置かれている。
その人の姿は、
なかった。
名前も、
行き先も、
分からない。
分からないままで、
よかった。
⸻
最後の仕事
その日、
彼は、
ゆっくりと歩いた。
足取りは、
以前より、
確実に遅い。
それでも、
声は、
聞こえてしまう。
森の縁で、
倒れている人影。
若い。
痩せている。
理由は、
分からない。
彼は、
膝をつき、
確認する。
生きている。
それだけで、
十分だった。
⸻
縫う
手は、
震えていた。
以前より、
はっきりと。
それでも、
止まらない。
縫い目は、
歪む。
だが、
止血は、
できる。
生きる分には、
足りる。
彼は、
それ以上を、
望まなかった。
⸻
言葉
作業が終わったころ、
その人が、
目を開く。
怯えた目。
彼は、
視線を合わせない。
「……助かった」
その人は、
そう言った。
彼は、
少し間を置く。
息を、
一つ、
整える。
⸻
答え
「いや」
声は、
低く、
掠れていた。
「まだ、
生きてるだけだ」
それ以上は、
言わない。
それ以上を、
言えば、
完成してしまう。
⸻
静けさ
夜が来る。
彼は、
火を起こさない。
ただ、
外套に包まり、
呼吸を数える。
世界は、
何も変わっていない。
差別も、
制度も、
余剰も、
まだ、
そこにある。
彼一人で、
それらは、
動かせなかった。
⸻
それでも
それでも、
今日、
一人は、
死ななかった。
理由は、
説明できない。
正義でも、
信仰でも、
制度でもない。
ただ、
誰かが、
手を伸ばした。
それだけだ。
⸻
終わらない終わり
彼は、
目を閉じる。
明日、
動けるかは、
分からない。
声を、
聞けるかも、
分からない。
だが、
それでいい。
彼の物語は、
完成しなかった。
完成しないまま、
地面に、
静かに、
置かれた。
まだ、
生きている命の、
そばに。