第二話
湿原の獣人 ――命として見るということ
湿原は、境界だった。
地図には載っていない。
どの領主も正式には支配を主張せず、
教会の巡察も「通過地」としてしか扱わない。
だからこそ、
追われる者が集まり、
捨てられる者が沈む。
彼がそこへ来たのは、偶然ではなかった。
だが、目的がはっきりしていたわけでもない。
ただ、噂があった。
――獣人が、湿原で倒れている。
――巡察兵に見つかれば、その場で処理される。
夜だった。
湿った空気が肌にまとわりつき、
足元では水と泥が不規則に音を立てる。
月は雲に隠れ、視界は悪い。
それでも彼は、音の違和感を聞き逃さなかった。
浅い呼吸。
草を引きずる音。
必死に声を殺そうとする、失敗の痕跡。
「……そこか」
小さく呟き、彼は盾を前に出したまま近づいた。
いた。
獣人の女だった。
種族は狼に近い。
灰色の毛並みは泥にまみれ、
右脇腹から血が滲んでいる。
傷は、剣。
浅くはないが、致命傷でもない。
――だが、放置すれば死ぬ。
女は彼に気づくと、牙を剥いた。
威嚇。
それしか、残っていない反応。
「大丈夫だ」
彼は、すぐには近づかない。
声も低く、抑える。
「教会の巡察じゃない」
それは、
半分は本当で、
半分は嘘だった。
彼女の耳が、ぴくりと動く。
「……嘘だ」
掠れた声。
それでも、意思がある。
「神父は、
獣人を助けない」
その言葉に、
彼は一瞬だけ、返答に迷った。
そして、正直に言う。
「俺は、
助けるかどうかを
神に聞かない」
女は、理解できないという顔をした。
それでも――
牙を引っ込めた。
彼は、ゆっくりと距離を詰める。
奇蹟は使わない。
治癒魔法も、まだだ。
まず、血を止める。
薬草を噛み砕き、
布に包み、
傷口に押し当てる。
女は、声を殺して呻いた。
「……なんで」
問いかけ。
「なんで、
人間が」
彼は、答えながら、包帯を締める。
「人を人だと思ってないからだ」
女の目が、見開かれる。
「……は?」
彼は、作業の手を止めない。
「人って言葉は、
便利すぎる」
「線を引いて、
切り捨てるために
使われすぎてる」
包帯を結び、
呼吸を確認する。
「でも、
命は違う」
「生きてるか、
死ぬかだけだ」
女は、しばらく黙っていた。
やがて、力なく笑う。
「……変な神父」
「そう言われるのは、慣れてる」
彼は、彼女を背負った。
湿原の奥、
教会の裏手にある小屋へ向かう。
巡察兵に見つかれば、
両方処理対象だ。
だから、慎重に。
だが、迷いはなかった。
小屋は、元々物置だったものだ。
彼が勝手に居住スペースとして使っている。
中は狭く、
清潔とは言い難い。
それでも、屋根と壁がある。
彼は女を寝かせ、
今度は治癒魔法を使った。
奇蹟ではない。
あくまで、自然治癒を助ける程度。
傷は塞がり、
出血は止まる。
それ以上はしない。
「……全部、治さないの?」
女が、ぼんやりと訊く。
「全部やると、
医者が要らなくなる」
彼は、淡々と言う。
「それに――
魔法は、
代償を誤魔化す」
女は、よく分からないまま、
眠りに落ちた。
翌朝。
彼は冒険者ギルドへ向かった。
依頼を見るためではない。
情報を集めるためだ。
湿原周辺で、
獣人狩りが行われている。
巡察兵の動きが、不自然に活発。
戻ってきた彼は、
水源へ向かった。
飲むふりをして、
水を回収する。
匂い。
色。
沈殿物。
「……やっぱりな」
汚染されている。
わざとだ。
獣人が集まる湿原を、
住めない場所にするため。
彼は、薬を“誤って”使用したことにした。
その結果、水源汚染が発覚した、という形を取る。
巡察兵と、
調査官が来る。
彼は、確保した水を差し出す。
「念のために、
その時の水は
こちらで保管しています」
嘘は、言っていない。
裁定は下った。
巡察兵の行動は問題視され、
表向きは「改善」が宣言される。
――だが、
それで終わりではない。
彼は、女の治療を続けた。
完治するまで。
歩けるようになるまで。
別れ際、女は言った。
「……人間は、
信用してない」
彼は、頷いた。
「それでいい」
「でも、
あんたは……」
言葉に詰まり、
女は首を振る。
「……守護者、
みたいだ」
彼は、答えなかった。
その日から、
湿原では噂が立ち始める。
――獣人を守る神父がいる。
――祈らないのに、助ける奴がいる。
彼は、
その呼び名を
否定もしなかった。
ただ、
湿原に留まった。
貴族関係の洗い出しを行い、
次の歪みを探すために。
この時点では、
彼自身もまだ知らない。
これが、
長い連鎖の最初の輪だということを。