境界に立つもの
番外編 血帽子譚
第一話
境界に立つもの
彼がいなくなってから、
世界は、特に変わらなかった。
差別は残り、
制度は更新され、
弱い者は、相変わらず選ばれなかった。
ただ一つ違ったのは、
夜の質だった。
街道が、
以前よりも、
静かになった。
人々はそれを、
治安の改善だと呼んだ。
巡察が増えたのだと、
裁定が厳しくなったのだと。
誰も、
別の可能性を口にしなかった。
⸻
最初の死体が見つかったのは、
廃れた関所の近くだった。
子どもだった。
獣人でも、
罪人でも、
指名手配犯でもない。
ただ、
夜を越えられなかっただけの命。
頭部に、
外傷は少ない。
だが、
首から下は、
奇妙に乾いていた。
血が、
抜かれている。
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「獣の仕業だろう」
誰かが言った。
それで、
話は終わった。
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二人目は、
逃亡奴隷だった。
鎖は、
切れていた。
自由に、
なった直後だったのだろう。
死体は、
橋の下で見つかった。
頭に、
赤い布切れが、
絡みついていた。
血で、
濡れている。
布の色なのか、
血の色なのか、
判別がつかない。
⸻
三人目で、
人々は気づき始める。
共通点がある。
皆、
一人だった。
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夜、
見張りが立てられるようになった。
たいまつの数が増え、
祈りの声が、
やたらと大きくなる。
だが、
それでも、
足音は聞こえる。
鉄が、
地面を打つ音。
重く、
規則正しく、
逃げ場を与えない音。
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ある夜、
見張りの一人が、
帰ってこなかった。
翌朝、
彼は、
関所の壁に、
腰掛けるような姿勢で、
発見された。
死因は、
同じだった。
血を、
失っている。
そして、
彼の頭には――
赤い帽子が、
被せられていた。
サイズが、
合っていない。
まるで、
誰かのものを、
無理やり載せたように。
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噂が、
名前を持ち始める。
血帽子。
赤頭。
境界の歩哨。
どれも、
正確ではない。
だが、
人々は、
それを呼ばずにはいられなかった。
呼べば、
少しだけ、
恐怖が整理されるからだ。
⸻
その夜、
森の縁で、
一人の女が、
足を止める。
年若い。
だが、
子どもではない。
火を起こす。
大きくない火。
誰かが、
かつてやっていたような、
控えめな火。
彼女は、
祈らない。
代わりに、
耳を澄ます。
そして、
聞いてしまう。
鉄の足音を。
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闇の向こうで、
赤いものが、
揺れる。
小さい。
だが、
異様に、
はっきりしている。
彼女は、
逃げなかった。
逃げても、
無駄だと、
知っている目だった。
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「……来たの?」
声が、
震えなかったのは、
慣れではない。
理解だ。
赤い帽子の下で、
何かが、
歪んだ笑みを作る。
声が、
返ってくる。
鉄を、
擦るような声。
「おまえは、
まだ、
選ばれていない」
彼女は、
一歩も、
動かなかった。
火の明かりが、
赤を、
より濃く照らす。
それは、
血の色だった。
誰のものか、
数え切れない血の色。
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彼女は、
静かに言う。
「……遅かった人の、
集合体ね」
赤頭が、
一瞬、
動きを止める。
理解された、
という事実に。
⸻
「あの人は、
もう、
いない」
彼女は、
続ける。
「でも、
まだ、
生きてる命は、
ある」
赤い影が、
一歩、
近づく。
鉄靴が、
火花を散らす。
⸻
「だから、
あなたは、
消えない」
それは、
断罪ではない。
祝福でも、
慰めでもない。
ただの、
確認だった。
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赤頭は、
笑った。
初めて、
明確に。
「そうだ」
「だから、
俺は、
ここにいる」
火が、
揺れる。
影が、
重なる。
夜は、
まだ、
終わらない。