番外編 血帽子譚
第二話
数えられなかった夜
夜は、均等ではない。
人が多く集まる場所の夜は、短い。
灯りがあり、声があり、名前が飛び交う。
そこでは闇は管理され、分割され、危険として処理される。
だが、
境界の夜は違う。
街道と森のあいだ。
法と無法のあいだ。
救済と放置のあいだ。
そこでは夜が、伸びる。
時間ではなく、密度として。
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女は、歩いていた。
目的地があったわけではない。
戻る場所も、急ぐ理由もなかった。
だから、境界を歩いていた。
選ばれなかった者たちが、自然と辿り着いてしまう場所。
巡察も、商人も、司祭も、長くは留まらない土地。
彼女は、かつて何度もそこを通った。
一人で歩く夜の危険性を、知らないわけではない。
それでも足を止めなかったのは、
恐怖よりも先に、理解が来てしまったからだ。
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鉄の音が、遠くで鳴る。
規則正しい。
獣のものではない。
人間のものとも、少し違う。
彼女は立ち止まり、火を起こす。
大きくしない。
目印にならないよう、しかし完全に消えない程度。
それは、誰かがかつてやっていたやり方だった。
意味はない。
安全でもない。
ただ、そうしてしまう。
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赤いものが、闇の中で揺れる。
最初は布切れのように見えた。
次に、帽子だと分かる。
最後に、それが生きるための器官だと理解する。
レッドキャップ。
名前は、後から付いた。
存在のほうが先だった。
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近づいてくるにつれ、分かることが増える。
背は低い。
姿勢は歪んでいる。
だが、動きに無駄がない。
長く生きてきた存在ではない。
長く殺してきた存在だ。
彼女は逃げなかった。
逃げるという選択肢が、彼女の中で成立しなかった。
なぜなら、彼女は知っていたからだ。
これは追跡者ではない。
罠でも、報復でもない。
余った夜が、生んだものだ。
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レッドキャップは、彼女を見ていた。
値踏みするようでもなく、
敵意を示すでもなく。
ただ、確認している。
この命が、
「今夜、消えても問題ないか」を。
それは残酷な判断ではない。
制度と同じ判断だった。
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彼女は、初めて口を開く。
だが、問いは投げない。
答えが返る構造を、作らない。
「……あなたは、増えた」
事実の指摘。
レッドキャップの足が止まる。
彼女は続ける。
「この辺り、
前は、もっと静かだった」
それは、治安の話ではない。
見捨てられる速度の話だ。
救済が減ったのではない。
選別が、洗練された。
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赤頭は、笑わない。
代わりに、
帽子の縁から、血が一滴、落ちる。
乾いていない。
つまり、
今夜すでに一人は終わっている。
彼女は、目を閉じない。
閉じる理由がなかった。
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「あなたは、
悪じゃない」
それは、免罪ではない。
「でも、
正義でもない」
それも、断罪ではない。
ただ、配置の確認だった。
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レッドキャップは、ようやく口を開く。
「俺は、
数えない」
それは誇りではない。
哲学でもない。
できないのだ。
数えれば、
自分が何者か分かってしまうから。
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彼女は、火を見つめながら言う。
「数えなかった人たちが、
あなたを作った」
「数えられなかった夜が、
あなたを呼んだ」
その言葉に、
赤頭は否定しない。
否定できない。
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遠くで、声がする。
助けを呼ぶ声か、
怒鳴り声か、
あるいは、ただの錯覚か。
どちらでも、同じだった。
レッドキャップは、そちらを向く。
彼女を、もう見ていない。
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「……行くのね」
彼女がそう言うと、
赤頭は、振り返らずに答える。
「まだ、
生きてる声がある」
それは、かつて誰かが使っていた言葉に、
よく似ていた。
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鉄の足音が、遠ざかる。
彼女は、追わない。
止めもしない。
ここで何かをすれば、
それは制度になる。
制度は、
また別の怪物を生む。
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火が消える。
夜は、
まだ、
数えられていない。
彼女は、立ち上がり、歩き出す。
この世界には、
救済より先に、
理解してしまう人間がいる。
それが、
救いにならないことを知りながら。