番外編 血帽子譚
第三話
赤は、空だった
彼は、夜の境界に立っていた。
道として扱われながら、
誰の責任にも含まれない場所。
人が倒れても、
「そこにいたこと」が記録されない距離。
彼は、
何度もこの境界に立ってきた。
立つことで、
間に合ったと思いたかった。
立ち続ければ、
守護者でいられると、
どこかで信じていた。
⸻
鉄の音は、
夜に溶けていた。
急がない足音。
追わない歩幅。
間に合わないことを、
最初から知っている存在の歩き方。
彼は、
盾を構える。
だが、
それは防ぐためではない。
境界を示すためだった。
⸻
赤いものが、
闇の奥から滲み出る。
形は小さく、
曖昧で、
人であった痕跡だけが、
ぎりぎり残っている。
帽子だけが、
不自然に、
はっきりしている。
夜に、
色を主張するもの。
レッドキャップ。
彼は、
それを見て、
初めて、
自分がまだ
戦おうとしていることに気づいた。
⸻
「……まだ、
終わらせられないのか」
声は、
誰に向けたものでもない。
問いではなかった。
自分が、
守護者という位置に、
しがみついていることへの確認だった。
⸻
レッドキャップは、
彼を見ない。
彼の向こう、
もっと深い夜を見る。
まだ、
選ばれていない声がある。
それだけで、
十分なのだ。
⸻
彼は、
一歩、
踏み出す。
止めるためではない。
割って入るため。
境界を、
身体で示す。
それが、
彼のやり方だった。
⸻
棍が振るわれ、
赤い影が揺れる。
音は、
ほとんどない。
鉄靴が、
地面を踏む。
布が、
擦れる。
それだけだ。
戦いと呼ぶには、
あまりにも、
静かだった。
⸻
彼は、
何度か、
棍を振った。
正確ではない。
美しくもない。
ただ、
間に合わなかった数だけ、
振った。
⸻
赤い帽子が、
落ちる。
地面に触れた瞬間、
布の音がした。
中身のないものが、
空気を含んだ音。
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レッドキャップは、
崩れた。
血は、
ほとんど流れない。
最初から、
残っていなかったのだと、
分かる。
⸻
静寂。
彼は、
その場に立ち尽くす。
勝った感覚は、
ない。
負けた感覚も、
ない。
ただ、
遅れだけが、
確定した。
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帽子を、
拾い上げる。
軽い。
あまりにも、
軽い。
中には、
骨も、
芯も、
意思もない。
あるのは、
染みだけだ。
重ねられ、
乾き、
また重ねられた色。
それは、
誰かの血ではない。
数えられなかった夜の、
痕跡だった。
⸻
彼は、
帽子を見つめながら、
低く、
独り言のように言う。
「……俺は、
守っていたんじゃない」
言葉は、
続いた。
「境界に、
立っていただけだ」
「間に合った夜を、
数えたかっただけだ」
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胸の奥が、
わずかに、
沈む。
それは、
後悔ではない。
理解だった。
⸻
「それでも……」
彼は、
言葉を止める。
続ければ、
完成してしまう。
⸻
帽子を、
地面に置く。
それは、
墓標ではない。
だが、
放置でもない。
ここに、
こういう夜があったという、
印だけを残す行為。
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彼は、
怪物を殺した。
だが、
怪物を生む仕組みには、
触れていない。
それを壊そうとも、
しなかった。
壊せば、
また別の形で、
夜が歪むと、
知ってしまったからだ。
⸻
「……次は」
彼は、
小さく、
呟く。
「もう少し、
早く立てる場所を、
探そう」
それは、
希望ではない。
計画でもない。
ただ、
方向だった。
⸻
彼は、
歩き出す。
音は、
ほとんど残らない。
背後で、
風が吹く。
赤い帽子が、
わずかに転がる。
その内側は、
どこまでも、
空だ。
だが、
夜は、
別の場所で、
すでに
歪み始めている。
選ばれなかった声が、
溜まり始めている。
まだ、
名前のない何かが。