第三話
水源と裁定 ――正義は、いつも遅れてくる
水は、命だった。
湿原においてそれは、
生きるか死ぬかを分ける唯一の基準であり、
同時に、誰の責任にもならないものだった。
彼は、日の昇る前に水源へ向かった。
朝霧が低く垂れ込み、足元の視界は悪い。
だが、ここを通る獣人や流民たちは、
この霧の濃さで巡察兵の気配を測る。
――今日は、静かすぎる。
嫌な予感があった。
水をすくい、口に含む。
すぐに吐き出した。
苦い。
鉄の味に、
わずかな腐臭。
彼は無言で水袋に水を汲み、
沈殿を確かめる。
見覚えのある色だった。
かつて聖戦の最中、
敵対集落を「移動させる」ために
使われたものと、同じ。
「……排除じゃない」
小さく呟く。
「居られなくする、か」
殺せば問題になる。
だが、住めなくすれば、
自然死として処理できる。
それが、
正義の顔をしたやり方だった。
彼は、すぐに動いた。
巡察兵に直訴はしない。
彼らは命令で動いている。
命令の出所に触れなければ、
意味がない。
だから彼は、
“事故”を起こすことにした。
薬を使う。
治療用のものだ。
使用方法を誤れば、
水質に影響が出る――
ということになっている。
彼は、その「誤り」を演じた。
数時間後。
巡察兵が動き、
調査官が呼ばれた。
形式ばった鎧。
記録用の紙束。
そして、
感情を排した目。
調査官は、水を見て眉をひそめる。
「……汚染ですね」
「はい」
彼は、水袋を差し出した。
「念のため、
その時の水は
こちらで確保しています」
調査官は、
彼を一瞥した。
「あなたが?」
「偶然です」
嘘ではない。
裁定の場は、
簡素だった。
巡察兵の行動は「行き過ぎ」とされ、
水源は一時封鎖。
原因は「管理不備」。
誰も、
「意図的」という言葉を
使わなかった。
それで、
十分だった。
裁定のあと、
彼は一人、地に残った。
獣人の女の様子を見に戻る。
彼女は、
もう一人で歩ける。
傷跡は残っているが、
生きている。
彼は、包帯を外しながら言う。
「ここには、
長く居ない方がいい」
女は、分かっていたように頷いた。
「……人間の街は?」
「行かない方がいい」
即答だった。
女は、少し笑った。
「だよね」
治療が終わり、
彼女が去る前、
彼は一言だけ伝えた。
「守れなかったら、
逃げろ」
「俺を信じるな」
女は、振り返らなかった。
それでいい。
彼は、
湿原に留まった。
裁定の行方を見届けるためではない。
裁定が終わった後に、
何も変わらないことを
確認するためだ。
噂は、すぐに広がった。
――巡察兵が調査された。
――でも、誰も処罰されていない。
――水は、またそのうち汚れる。
彼は、
それを否定しなかった。
正義は、
いつも遅れてくる。
そして多くの場合、
間に合わない。
その夜、
彼は一人で火を起こし、
盾を傍らに置いた。
聖職者として、
彼はかつて裁定を信じていた。
神の名で下される判断は、
常に正しいと。
だが今は、
違う。
裁定は、
人を守るためではなく、
秩序を保つためにある。
秩序の外にいる命は、
最初から数に入っていない。
彼は、
火を見つめながら考える。
――では、
――誰が、その命を見る?
答えは、
出ている。
だから、
彼は冒険者を続ける。
だから、
次の土地へ向かう。
湿原での出来事は、
終わりではない。
これは、
もっと大きな歪みの
予兆にすぎなかった。
東へ。
契約が、
神の代わりをしている街があるという。
彼は、
盾を背負い、
棍棒を手に取った。
祈りは、もう捧げない。
――だが、
守る準備はできている。