第六話
契約都市ヴァル=ケイン(後編)
――正しさは、人を救わない
夜明け前のヴァル=ケインは、
最も静かだった。
通りに人影は少なく、
巡回兵の足音だけが、
一定の間隔で響く。
彼は、
文書庫の外に立っていた。
エリス・ハルヴェインは、
まだ中にいる。
「逃げる準備は?」
彼の問いに、
彼女は首を横に振った。
「……いいえ」
「ここを離れれば、
私は“裏切り者”になります」
「でも、
残れば――」
彼女は、
言葉を切った。
「……私は、
人を壊す側になります」
彼は、
それ以上説得しなかった。
選ぶのは、
彼女だ。
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契約の中枢
調整局の中枢は、
地下にあった。
完全調整区画。
立ち入りは、
契約評議会の許可が必要だ。
彼らは、
正面から行った。
エリスの権限で。
扉が開くと、
白い部屋が現れる。
寝台。
装置。
そして――
署名台。
そこには、
既に数名が横たわっていた。
奴隷。
負債者。
犯罪者。
だが、
全員が「同意済み」だ。
「説明は、
十分になされました」
責任者――
レオ・ヴァルネスは、
淡々と言う。
「彼らは、
楽になることを選んだ」
「我々は、
その選択を尊重する」
彼は、
一歩前に出る。
「選択肢は、
他にもあったか?」
レオは、
微笑んだ。
「現実的なものは、
ありません」
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問い
彼は、
一人の獣人を指す。
「彼女は?」
「労働不能。
回復見込みなし」
「だから?」
「社会的負債です」
即答。
「調整後は?」
「穏やかに生きます」
「……生きる?」
レオは、
わずかに眉を上げた。
「存在します」
それが、
この街の答えだった。
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選ばれなかった選択
彼は、
盾を床に置いた。
武器を構えない。
代わりに、
聖職者として――
いや、
人として言う。
「俺は、
人を人だと思っていない」
レオが、
目を細める。
「だが――」
彼は、
獣人を見る。
「皆を、
命として見ている」
「命は、
楽になるために
削るものじゃない」
一瞬、
空気が張り詰めた。
次の瞬間。
警報。
「不正侵入!」
「完全調整中止!」
エリスが、
端末を叩いていた。
「……ごめんなさい」
「でも、
もう止められません」
彼は、
短く言う。
「十分だ」
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逃走
混乱は、
一気に広がった。
市民は、
何も知らない。
だが、
装置が止まり、
調整が中断されたことで、
“戻ってきた”者たちがいた。
泣き出す者。
叫ぶ者。
動けない者。
彼は、
片っ端から支える。
魔法ではない。
奇蹟でもない。
触れて、
声をかけるだけ。
兵が来る。
彼は、
盾を構え、
棍棒を握る。
殺さない。
だが、
通さない。
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裁定
数日後。
教会と都市連盟による、
緊急裁定。
結果は、
曖昧だった。
完全調整は、
「一時凍結」。
契約制度は、
「再検討」。
責任者は、
更迭。
だが、
制度は残る。
いつでも、
再開できる形で。
エリスは、
職を失った。
彼女は、
それでも言った。
「……それでも、
何人かは、
戻れました」
彼は、
頷く。
「それでいい」
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別れ
街を出る朝。
彼女は、
彼に問いかける。
「あなたは、
正しいと思いますか?」
彼は、
少し考えてから答える。
「分からない」
「でも――」
「誰かに
選ばせない正しさは、
信用しない」
彼女は、
小さく笑った。
「……あなたらしい」
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静けさ
街道に出ると、
風が冷たかった。
ヴァル=ケインは、
背後で静かに佇んでいる。
平和で、
美しく、
正しい街。
彼は、
振り返らない。
次の噂が、
既に耳に入っていた。
――別の土地で、
――また、
――命が軽く扱われている。
盾を背負い、
片手斧の重みを確かめる。
祈りは、
まだ捧げない。