検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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前日譚

朝は、いつも同じ匂いから始まる。

 

湿った土と、古い石と、昨夜の煙草の残り香。

イェルグはそれを吸い込み、肺の奥で一度留めてから、ゆっくりと吐いた。

 

宿の窓は低く、外の景色は切り取られている。

見えるのは、教会の裏手に伸びる細い道と、その先にある川の一部だけだ。

水面は静かで、流れがあるようには見えない。

だが、近づけば足を取られる。

そういう川だった。

 

イェルグは三十代の半ばで、

自分の年齢を意識することはあまりない。

朝起きたときに体が重いかどうか、

それだけで十分だった。

 

外套に腕を通し、

机の上の帳面を確かめる。

白紙のページが、数枚。

それで足りる日もあれば、

一晩で埋まる日もある。

 

彼は、帳面の中身を予想しない。

 

予想した瞬間から、

死体は語らなくなるからだ。

 

煙草に火をつける。

教会の建物の中では吸えない。

だが、ここは宿だ。

窓を少し開け、

朝の冷えた空気と一緒に煙を逃がす。

 

祈りの声が、遠くから聞こえてきた。

朝の祈祷だろう。

イェルグは耳を傾けず、

ただ煙草を指に挟んだまま、目を閉じる。

 

信仰は、嫌いではない。

だが、頼りにもしない。

 

死体の前で、

祈りが役に立ったことは一度もなかった。

 

彼が教会に籍を置いているのは、

この仕事を続けるために必要だったからだ。

検死官という立場は、

便利で、不自由で、

ちょうどいい檻でもある。

 

町の人間は、

彼を歓迎しない。

かといって、追い払うこともできない。

 

イェルグはそれを、

気にしていなかった。

 

人にどう見られるかよりも、

死がどう残されているかのほうが、

ずっと重要だった。

 

外で、馬の嘶きがする。

誰かが来たのだろう。

 

イェルグは、

煙草を灰皿に押し付け、

火を消す。

 

帳面を鞄に入れ、

外套の襟を立てる。

 

今日も、

どこかで死が止まっている。

 

それが自然なのか、

誰かの手によるものなのか。

 

それを確かめるために、

彼は歩く。

 

境界は、

誰も守らなければ、

簡単に崩れる。

 

だから、

彼はそこに立つ。

 

祈らず、

裁かず、

ただ記すために。

 

白く、薄く、風にほどけていくそれは、

いつ見ても同じ形にならない。

だから、覚えようとしない。

 

一息、吸う。

 

肺に入った熱が、胸の奥で止まり、

それから、ゆっくりと吐き出される。

 

煙は、死体のほうへ流れた。

 

生きていた頃、この人間がそれを嫌ったかどうかは分からない。

イェルグは気にしなかった。

これは祈りではない。

区切りだ。

 

「……始めようか」

 

独り言は、誰にも聞かれない前提で発せられる。

だから声は小さく、しかし曖昧ではない。

 

死体は男だった。

年は分からない。

痩せているが、飢餓ではない。

服は擦り切れているが、路上生活者ではなさそうだ。

指に、古い傷がある。

利き手だろう。

 

イェルグは、煙を地面に落とし、靴底で軽く踏み消す。

完全には消さない。

くすぶりが残る。

 

その程度でいい。

 

彼はナイフを取り出し、

刃の反射に一瞬だけ、自分の目を映した。

 

穏やかだ。

少なくとも、外から見れば。

 

彼は悲しむ。

だが、嘆かない。

 

この男が死んだことは悲しい。

だが、なぜこういう死が起き続けるのか、という問いは、

今は必要ない。

 

問いは、後回しにできる。

腐敗は、待ってくれない。

 

刃を入れる前に、

イェルグは、もう一度だけ死体を見た。

 

「名前、分かるといいんだが」

 

分からなければ、

代わりに何かを覚える。

 

この男の指の傷。

それだけでいい。

 

外では風が吹き、

さっき消しかけた煙が、もう一度だけ立ち上った。

 

それを見て、イェルグは少しだけ目を細める。

 

理由はない。

ただ、

煙が立つ前と後では、

世界の重さが、ほんの少しだけ違う。

 

彼は検死官だ。

 

世界を救うつもりはない。

ただ、

今ここにある死を、

なかったことにしないだけだ。

 

ナイフが、静かに動き始めた。

 

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