朝は、いつも同じ匂いから始まる。
湿った土と、古い石と、昨夜の煙草の残り香。
イェルグはそれを吸い込み、肺の奥で一度留めてから、ゆっくりと吐いた。
宿の窓は低く、外の景色は切り取られている。
見えるのは、教会の裏手に伸びる細い道と、その先にある川の一部だけだ。
水面は静かで、流れがあるようには見えない。
だが、近づけば足を取られる。
そういう川だった。
イェルグは三十代の半ばで、
自分の年齢を意識することはあまりない。
朝起きたときに体が重いかどうか、
それだけで十分だった。
外套に腕を通し、
机の上の帳面を確かめる。
白紙のページが、数枚。
それで足りる日もあれば、
一晩で埋まる日もある。
彼は、帳面の中身を予想しない。
予想した瞬間から、
死体は語らなくなるからだ。
煙草に火をつける。
教会の建物の中では吸えない。
だが、ここは宿だ。
窓を少し開け、
朝の冷えた空気と一緒に煙を逃がす。
祈りの声が、遠くから聞こえてきた。
朝の祈祷だろう。
イェルグは耳を傾けず、
ただ煙草を指に挟んだまま、目を閉じる。
信仰は、嫌いではない。
だが、頼りにもしない。
死体の前で、
祈りが役に立ったことは一度もなかった。
彼が教会に籍を置いているのは、
この仕事を続けるために必要だったからだ。
検死官という立場は、
便利で、不自由で、
ちょうどいい檻でもある。
町の人間は、
彼を歓迎しない。
かといって、追い払うこともできない。
イェルグはそれを、
気にしていなかった。
人にどう見られるかよりも、
死がどう残されているかのほうが、
ずっと重要だった。
外で、馬の嘶きがする。
誰かが来たのだろう。
イェルグは、
煙草を灰皿に押し付け、
火を消す。
帳面を鞄に入れ、
外套の襟を立てる。
今日も、
どこかで死が止まっている。
それが自然なのか、
誰かの手によるものなのか。
それを確かめるために、
彼は歩く。
境界は、
誰も守らなければ、
簡単に崩れる。
だから、
彼はそこに立つ。
祈らず、
裁かず、
ただ記すために。
白く、薄く、風にほどけていくそれは、
いつ見ても同じ形にならない。
だから、覚えようとしない。
一息、吸う。
肺に入った熱が、胸の奥で止まり、
それから、ゆっくりと吐き出される。
煙は、死体のほうへ流れた。
生きていた頃、この人間がそれを嫌ったかどうかは分からない。
イェルグは気にしなかった。
これは祈りではない。
区切りだ。
「……始めようか」
独り言は、誰にも聞かれない前提で発せられる。
だから声は小さく、しかし曖昧ではない。
死体は男だった。
年は分からない。
痩せているが、飢餓ではない。
服は擦り切れているが、路上生活者ではなさそうだ。
指に、古い傷がある。
利き手だろう。
イェルグは、煙を地面に落とし、靴底で軽く踏み消す。
完全には消さない。
くすぶりが残る。
その程度でいい。
彼はナイフを取り出し、
刃の反射に一瞬だけ、自分の目を映した。
穏やかだ。
少なくとも、外から見れば。
彼は悲しむ。
だが、嘆かない。
この男が死んだことは悲しい。
だが、なぜこういう死が起き続けるのか、という問いは、
今は必要ない。
問いは、後回しにできる。
腐敗は、待ってくれない。
刃を入れる前に、
イェルグは、もう一度だけ死体を見た。
「名前、分かるといいんだが」
分からなければ、
代わりに何かを覚える。
この男の指の傷。
それだけでいい。
外では風が吹き、
さっき消しかけた煙が、もう一度だけ立ち上った。
それを見て、イェルグは少しだけ目を細める。
理由はない。
ただ、
煙が立つ前と後では、
世界の重さが、ほんの少しだけ違う。
彼は検死官だ。
世界を救うつもりはない。
ただ、
今ここにある死を、
なかったことにしないだけだ。
ナイフが、静かに動き始めた。