第九話 向こう岸
夜は、
静かすぎた。
川の音が、
小さい。
それが、
最初の違和感だった。
「……減っています」
ルーネが、
囁く。
夜目に慣れた視線で、
川面を追う。
「ええ」
イェルグは、
肯定した。
昼よりも、
確実に。
水が、
浅い。
風はない。
雲もない。
それなのに、
水面が揺れている。
「……向こう岸で、
灯りが……」
ルーネが言った。
小さな火。
松明ではない。
揺れ方が、
人のものではなかった。
「村です」
イェルグは、
短く言う。
「……人が、
住んでる……」
「ええ」
「でも……
避難は……」
「教会の指示は、
まだです」
その言葉が、
夜に落ちた。
灯りが、
一つ、消えた。
次に、
もう一つ。
「……消え方が……」
「吹き消した、
のではありません」
イェルグの声は、
低い。
「奪われています」
川向こうで、
何かが動いた。
姿は、
見えない。
だが、
音がある。
湿った、
何かを引きずる音。
「……来てない、
ですよね」
ルーネの声が、
震える。
「ええ」
イェルグは、
動かない。
「ヌックは、
越えていません」
「でも……」
「境界は、
場所ではありません」
ルーネが、
息を止める。
「……人が、
持ち込む」
「ええ」
灯りが、
完全に消えた。
暗闇の中で、
声が上がる。
叫びではない。
息を、
吸う音。
それが、
異様に長い。
「……吸っている……」
ルーネが、
理解してしまった声で言う。
「ええ」
イェルグは、
目を伏せる。
「共有させている」
川は、
越えられていない。
だが、
境界は。
人が、
向こうからこちらへ、
こちらから向こうへ。
恐怖を、
知識を、
行き来させてしまった。
「……助けに……」
「行きません」
イェルグは、
即座に言った。
「行けば、
境界が壊れます」
「でも……!」
「死体が、
二つ増えるだけです」
冷たい言葉だった。
だが、
夜はそれを、
飲み込んだ。
しばらくして、
音が止んだ。
川は、
静かだった。
「……終わった、
んですか」
「ええ」
イェルグは、
そう言った。
「一つは」
ルーネは、
何も言えなかった。
夜が、
明け始める。
淡い光の中で、
川向こうの家々が、
輪郭を取り戻す。
倒れた扉。
割れた窓。
そして。
「……あれは……」
川辺に、
何かがある。
人影。
だが、
立っていない。
「……川を、
越えて……?」
「いいえ」
イェルグは、
目を細める。
「投げられた、
のでしょう」
「……誰が」
「向こう岸の、
人です」
近づくと、
分かる。
淡水に触れた部分の、
皮膚が。
異様に、
荒れている。
「……ヌック、
嫌ったんですね……」
「ええ」
「……それでも……」
「それでも、
人は、
境界を越えさせようとする」
イェルグは、
遺体に布をかけた。
「恐怖は、
理屈を嫌います」
ルーネは、
震える手で、
帳面を開いた。
だが、
書けなかった。
「……これを……
教会に……?」
「事実だけを」
「……祈祷が、
来ますね」
「ええ」
イェルグは、
川を見た。
水位は、
さらに下がっている。
「そして、
境界は……」
「ええ」
イェルグは、
煙草を咥えた。
火は、
つけない。
「試されます」
川は、
まだ、
越えられていない。
だが、
向こう岸では、
もう。
境界が、
意味を失い始めていた。