第九十九話 山が返す声
谷を離れてしばらく、道はなだらかだった。
昼の光は均一で、影は短い。
危険を示す兆しは、どこにもない。
それでもルーネは、さっきから喉の奥に残る違和感を拭えずにいた。
声を出していないのに、出した気がする。
そんな後味。
イェルグは前を歩く。
歩幅は一定、呼吸も乱れない。
さっきまでの作業が、ただの仕事だったかのように。
「先生」
しばらくして、ルーネが呼びかけた。
「何だ」
「さっきの……あれは」
イェルグは足を止めなかった。
「音の怪異だ」
「それは分かります。でも……」
言葉を選ぶ。
「どうして、“呼ぶ”んですか」
少しだけ、沈黙が落ちた。
それから、イェルグは答える。
「由来の話か」
「はい」
「歩きながら聞け」
山道に入る。
木々が増え、音が吸われる。
反響は、起きにくい地形だ。
「昔からある」
イェルグは言った。
「名前はいくつもあるが、本質は同じだ」
ルーネは耳を澄ます。
「山で遭難した者の声」
「谷に残った祈り」
「呼び返された魂」
「どれも前の仕事と似てるが、違う」
「違う、んですか」
「ああ」
イェルグは、淡々と否定する。
「あれは、人が残した音だ」
「残した……」
「呼んだまま、返事をもらえなかった音」
ルーネの足が、一瞬止まりかける。
「誰かが、名前を呼んだ。
助けを求めた。
あるいは、ただ確認しただけかもしれん」
イェルグは続ける。
「だが、返事がなかった」
「それで……残る?」
「残る」
断言だった。
「音は、行き場を失うと、形を持つ」
ルーネは眉を寄せる。
「そんな……」
「声は感情を伴う」
イェルグは振り返らずに言う。
「特に、“待つ”感情だ」
待つ。
返ってくると信じて、声を投げた瞬間。
「山や谷は、よく覚えている」
「だから……返す?」
「正確には、返そうとする」
イェルグは立ち止まり、振り向いた。
「だが、元の相手はいない」
「……」
「だから、次の誰かに投げる」
ルーネは、さっき聞いた「ね」という音を思い出す。
意味はなくても、距離だけは正確だった。
「呼び水、というのは」
「返事を引き出すための構造だ」
「返事があったら」
「音は、役目を果たしたと勘違いする」
「それで、終わる?」
イェルグは、首を横に振った。
「固定される」
ルーネの背中に、冷たいものが走る。
「声は、次を求めるようになる」
「次……?」
「名前だ」
イェルグは短く言った。
「返事の次は、名を欲しがる」
名前。
呼びかけと、返事。
それが揃えば――
「存在になる」
ルーネは、無意識に自分の喉を押さえた。
「だから、返事をするなと」
「そうだ」
「でも……」
言葉が、詰まる。
「返事をしなければ、ずっと呼び続けるんじゃ」
イェルグは少し考えるように間を置いた。
「未成熟なうちはな」
「成熟すると?」
「構造が固まる」
「……怪異に」
「そうだ」
山道の先に、小さな祠が見えた。
風化して、文字は読めない。
「昔はな」
イェルグは祠を一瞥する。
「声に返事をする役目の人間がいた」
「役目……?」
「山守り、谷番、呼び返し役」
「返事を、してたんですか」
「ああ。ただし――」
イェルグは、はっきりと言った。
「同じ言葉を返した」
「同じ……」
「意味を足さない。
感情を乗せない。
確認だけだ」
「それで、収まった?」
「一時的にな」
ルーネは理解する。
優しさではない。
共鳴しないための、技術。
「でも、それも……」
「続かなかった」
イェルグの声は変わらない。
「人は、同じ言葉を返し続けられない」
「……」
「必ず、意味を与える」
安心させようとする。
終わらせようとする。
繋ごうとする。
「それが、声を育てる」
ルーネは、静かに息を吐いた。
「先生」
「何だ」
「もし……僕が」
言いかけて、止める。
イェルグは待った。
急かさない。
「もし、返事をしてしまったら」
「……」
「そのときは」
イェルグは、少しだけ目を伏せた。
「次の段階だ」
短い答え。
「止める側から、
止められる側になる」
山道を抜ける。
音はない。
それでもルーネは思う。
声は、どこかで待っている。
意味を与えてくれる誰かを。
そしてそれは、
いつも“悪意のない人間”を選ぶのだと。
その事実だけが、
重く、胸に残っていた。