第百一話 残った人
村に入ったのは、朝だった。
霧が低く、家々の輪郭が曖昧だったが、人の動きはある。畑に出る者、井戸に向かう者、戸口を掃く者。生活は続いている。少なくとも表面上は。
イェルグは足を止めずに村を見回した。
死の匂いはしない。腐敗も、停滞もない。
「被害は?」
迎えに来た村長は、首を横に振った。
「死人はいません。倒れた者も……今はいない」
“今は”という言葉を、イェルグは聞き逃さない。
「関わった者は」
「一人だけです」
家は村の外れにあった。
扉は開いていて、陽が差し込んでいる。
中にいた男は、椅子に座っていた。背筋は伸び、視線は正面。呼吸も脈も安定している。
「名前を」
男は、少し遅れて答えた。
「……ハロルド」
声は出る。言葉も選べている。
イェルグは一通りの確認を行った。
瞳孔反応、皮膚温、魔術反応の残滓。どれも問題ない。
「怪異の声を聞いたのは」
「……夜です」
「返事をしたか」
「……した、と思います」
記憶の欠落はない。
事実関係は保持されている。
ルーネが口を挟みかけて、やめた。
イェルグはそれを見ていたが、何も言わない。
「その後、何があった」
男は少し考える。
「……何も」
その答えは、嘘ではない。
異変は、起きていないのではなく、終わっている。
イェルグは立ち上がった。
「怪異は沈黙した。再発兆候なし」
村長が安堵の息をつく。
「では……」
「処理は完了だ」
その言葉で、この件は終わるはずだった。
⸻
検分は形式的に行われた。
家の周囲、地形、音の反響。
呼び声が増幅される条件。
返事をした場合の経路。
すべて、記録可能な範囲に収まっている。
「失敗ではないな」
イェルグは、帰路でそう言った。
「成功、ですか」
「副作用が出ただけだ」
ルーネは歩きながら、何度か振り返った。
家の前に立つ男は、こちらを見ていない。
「……先生」
「何だ」
「彼は……」
言葉が続かない。
イェルグは歩みを止めない。
「生きている」
それが、すべてだった。
村を出る前に、もう一度だけ男の家を訪れた。
理由はない。
手続き上、再確認の必要もない。
それでもイェルグは、戸口に立った。
男――ハロルドは、同じ椅子に座っていた。
朝と同じ姿勢。
呼吸の間隔も、視線の高さも、ほとんど変わっていない。
「体調に変わりは」
「ありません」
即答だった。
イェルグは、わずかに頷く。
「日常動作は」
「問題なく」
「家族とは」
「会話しています」
言葉は整っている。
感情も、形式上は破綻していない。
イェルグはそれ以上、踏み込まなかった。
村長が付き添いで立っている。
彼は何度も、ハロルドの顔を盗み見ていた。
「……あの」
村長が、耐えきれずに口を開く。
「前と、少し……」
言い切れなかった。
イェルグは視線を向ける。
「違うと?」
「いえ、そういうわけでは……」
言葉が濁る。
責める意図はない。ただの確認だ。
「元に、戻りますか」
イェルグは即答した。
「戻らない」
村長が息を呑む。
「ですが」
続ける。
「生活は続けられる。危険性はない」
「……それは」
「成功です」
その言葉で、村長は何も言えなくなった。
⸻
帰路の途中、ルーネは何度もペンを握り直していた。
簡易報告書。
その場で書ける範囲の記録。
項目は埋まっている。
空欄はない。
「後遺症」
そこだけが、残っていた。
ルーネは書けなかった。
「先生」
「何だ」
「……どう書きますか」
イェルグは立ち止まり、紙を覗いた。
「書く通りだ」
「でも」
「死んでいない。発狂もしていない」
事実だ。
「日常生活に支障なし。社会的機能維持」
イェルグは淡々と項目を口にする。
「――後遺症なし」
ルーネの指が、固まる。
「……はい」
書いた。
インクが紙に染みる。
消えない。
⸻
教会への正式報告は、後日まとめられた。
・怪異:沈黙型音響干渉
・被害者数:0
・死者:0
・処理結果:完全成功
評価は高い。
模範的。
追記欄には、こう書かれていた。
対応は迅速かつ的確。
住民への影響は最小限。
後遺症なし。
イェルグは、署名をした。
ルーネも、名前を書いた。
⸻
出立の日。
ハロルドは、家族に見送られていた。
妻は、彼の腕に手を絡めている。
子供が、父の足にしがみつく。
誰も泣いていない。
「ありがとうございました」
妻が言う。
イェルグは、帽子に手をやるだけだった。
ルーネは、ハロルドを見た。
彼は、ルーネを見返さなかった。
視線は、少しだけずれている。
人ではなく、空間の向こうを見ている。
「……先生」
歩き出してから、ルーネが言う。
「俺たちは、正しかったですよね」
イェルグは答える。
「生きてるなら、成功だ」
「死体じゃないなら」
一拍。
「俺たちの勝ちだ」
正しい。
正しすぎる。
ルーネは、それ以上、何も言えなかった。