検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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残った人

第百一話 残った人

 

村に入ったのは、朝だった。

 

霧が低く、家々の輪郭が曖昧だったが、人の動きはある。畑に出る者、井戸に向かう者、戸口を掃く者。生活は続いている。少なくとも表面上は。

 

イェルグは足を止めずに村を見回した。

死の匂いはしない。腐敗も、停滞もない。

 

「被害は?」

 

迎えに来た村長は、首を横に振った。

 

「死人はいません。倒れた者も……今はいない」

 

“今は”という言葉を、イェルグは聞き逃さない。

 

「関わった者は」

 

「一人だけです」

 

家は村の外れにあった。

扉は開いていて、陽が差し込んでいる。

 

中にいた男は、椅子に座っていた。背筋は伸び、視線は正面。呼吸も脈も安定している。

 

「名前を」

 

男は、少し遅れて答えた。

 

「……ハロルド」

 

声は出る。言葉も選べている。

 

イェルグは一通りの確認を行った。

瞳孔反応、皮膚温、魔術反応の残滓。どれも問題ない。

 

「怪異の声を聞いたのは」

 

「……夜です」

 

「返事をしたか」

 

「……した、と思います」

 

記憶の欠落はない。

事実関係は保持されている。

 

ルーネが口を挟みかけて、やめた。

イェルグはそれを見ていたが、何も言わない。

 

「その後、何があった」

 

男は少し考える。

 

「……何も」

 

その答えは、嘘ではない。

 

異変は、起きていないのではなく、終わっている。

 

イェルグは立ち上がった。

 

「怪異は沈黙した。再発兆候なし」

 

村長が安堵の息をつく。

 

「では……」

 

「処理は完了だ」

 

その言葉で、この件は終わるはずだった。

 

 

検分は形式的に行われた。

 

家の周囲、地形、音の反響。

呼び声が増幅される条件。

返事をした場合の経路。

 

すべて、記録可能な範囲に収まっている。

 

「失敗ではないな」

 

イェルグは、帰路でそう言った。

 

「成功、ですか」

 

「副作用が出ただけだ」

 

ルーネは歩きながら、何度か振り返った。

家の前に立つ男は、こちらを見ていない。

 

「……先生」

 

「何だ」

 

「彼は……」

 

言葉が続かない。

 

イェルグは歩みを止めない。

 

「生きている」

 

それが、すべてだった。

 

村を出る前に、もう一度だけ男の家を訪れた。

 

理由はない。

手続き上、再確認の必要もない。

 

それでもイェルグは、戸口に立った。

 

男――ハロルドは、同じ椅子に座っていた。

朝と同じ姿勢。

呼吸の間隔も、視線の高さも、ほとんど変わっていない。

 

「体調に変わりは」

 

「ありません」

 

即答だった。

 

イェルグは、わずかに頷く。

 

「日常動作は」

 

「問題なく」

 

「家族とは」

 

「会話しています」

 

言葉は整っている。

感情も、形式上は破綻していない。

 

イェルグはそれ以上、踏み込まなかった。

 

村長が付き添いで立っている。

彼は何度も、ハロルドの顔を盗み見ていた。

 

「……あの」

 

村長が、耐えきれずに口を開く。

 

「前と、少し……」

 

言い切れなかった。

 

イェルグは視線を向ける。

 

「違うと?」

 

「いえ、そういうわけでは……」

 

言葉が濁る。

責める意図はない。ただの確認だ。

 

「元に、戻りますか」

 

イェルグは即答した。

 

「戻らない」

 

村長が息を呑む。

 

「ですが」

 

続ける。

 

「生活は続けられる。危険性はない」

 

「……それは」

 

「成功です」

 

その言葉で、村長は何も言えなくなった。

 

 

帰路の途中、ルーネは何度もペンを握り直していた。

 

簡易報告書。

その場で書ける範囲の記録。

 

項目は埋まっている。

空欄はない。

 

「後遺症」

 

そこだけが、残っていた。

 

ルーネは書けなかった。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「……どう書きますか」

 

イェルグは立ち止まり、紙を覗いた。

 

「書く通りだ」

 

「でも」

 

「死んでいない。発狂もしていない」

 

事実だ。

 

「日常生活に支障なし。社会的機能維持」

 

イェルグは淡々と項目を口にする。

 

「――後遺症なし」

 

ルーネの指が、固まる。

 

「……はい」

 

書いた。

 

インクが紙に染みる。

消えない。

 

 

教会への正式報告は、後日まとめられた。

 

・怪異:沈黙型音響干渉

・被害者数:0

・死者:0

・処理結果:完全成功

 

評価は高い。

模範的。

 

追記欄には、こう書かれていた。

 

対応は迅速かつ的確。

住民への影響は最小限。

後遺症なし。

 

イェルグは、署名をした。

 

ルーネも、名前を書いた。

 

 

出立の日。

 

ハロルドは、家族に見送られていた。

 

妻は、彼の腕に手を絡めている。

子供が、父の足にしがみつく。

 

誰も泣いていない。

 

「ありがとうございました」

 

妻が言う。

 

イェルグは、帽子に手をやるだけだった。

 

ルーネは、ハロルドを見た。

 

彼は、ルーネを見返さなかった。

 

視線は、少しだけずれている。

人ではなく、空間の向こうを見ている。

 

「……先生」

 

歩き出してから、ルーネが言う。

 

「俺たちは、正しかったですよね」

 

イェルグは答える。

 

「生きてるなら、成功だ」

 

「死体じゃないなら」

 

一拍。

 

「俺たちの勝ちだ」

 

正しい。

正しすぎる。

 

ルーネは、それ以上、何も言えなかった。

 

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