第百二話 同時刻:ルーネ
最初におかしいと思ったのは、
ハロルドが瞬きをしなかったことだ。
正確には、している。
しているはずなのに、記憶に残らない。
視線を合わせたとき、目は開いていた。
次の瞬間も、同じだった。
「検査を続けます」
自分の声が、やけに落ち着いて聞こえた。
指先で脈を取る。
規則正しい。
皮膚の温度。
正常。
反射。
問題なし。
異常は、どこにもない。
――ない、はずだった。
ハロルドは、質問にすぐ答えた。
間を置かない。
考える素振りがない。
「昨日の夕食は」
「パンとスープです」
「味は」
「普通でした」
普通。
その言葉が、喉に引っかかる。
普通とは、何だ。
ルーネは、もう一度、顔を見る。
表情筋は動いている。
口角も、眉も、正しい位置にある。
それなのに、感情が立ち上がらない。
死体を見るときのほうが、まだ分かりやすい。
硬直、変色、損壊。
身体が語ってくれる。
でも、この人は――
何も語らない。
「不快感はありませんか」
「ありません」
「不安は」
「ありません」
嘘ではない。
検死官として、そう断言できる。
だからこそ、困る。
⸻
家族が部屋に入ってきたとき、
空気が、ほんの少しだけ歪んだ。
妻が笑った。
ぎこちなくない。
子供が抱きついた。
拒まれなかった。
それなのに。
ハロルドの手が、遅れた。
一拍。
ほんの一瞬。
遅れてから、抱き返す。
その遅れに、誰も気づかない。
気づく必要がない。
ルーネだけが、見てしまった。
(今のは)
口に出せない。
出しても、意味がない。
「検死官殿」
村長が言う。
「本当に……もう」
続きが、出てこない。
ルーネは答えられなかった。
代わりに、イェルグが答える。
「問題ない」
その声は、揺れなかった。
⸻
帰り道。
紙の上に並ぶ文字は、すべて正しい。
病理的異常なし。
精神異常なし。
外的影響なし。
――後遺症なし。
ペンを持つ手が、止まる。
(後遺症って)
何を指す言葉だ。
死ななかったことか。
狂わなかったことか。
それとも。
「ルーネ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「手が止まってる」
「……はい」
書いた。
書いてしまった。
インクは、躊躇しない。
⸻
村を出るとき、
ハロルドは見送らなかった。
いや、いた。
そこに、立っていた。
でも、こちらを見ていなかった。
視線は、音の残骸を見るみたいに、
空気の奥に向いている。
(まだ、聞いているのか)
問いが、浮かぶ。
答えは、ない。
怪異は、倒された。
記録上は。
それなのに、
その余韻だけが、人に残った。
(検死できない変化)
そう思った瞬間、
自分が検死官であることが、急に遠くなる。
「先生」
声が、少し震えた。
「俺たち……」
言葉が続かない。
イェルグは、歩いたまま言う。
「生きてるなら、成功だ」
分かっている。
分かっているから、苦しい。
(じゃあ、これは)
この違和感は、どこに置けばいい。
記録できない。
否定もできない。
ただ、残る。
ルーネは、そのまま歩いた。
壊れた自覚は、まだない。
ただ、
声がしなかったはずのものが、
確かにそこにあった――
そんな気が、離れないだけだ。