検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

104 / 131
その後:何も変わらない日

第百三話 その後:何も変わらない日

 

朝は、ちゃんと来た。

 

ルーネは目を覚まし、天井を見て、瞬きをした。

宿の木目は昨日と同じだ。染みの形も、光の入り方も。

 

(夢は、見なかったな)

 

そう思ったが、気にしなかった。

 

顔を洗い、装備を確認する。

刃物、布、薬草。

数は合っている。

 

一つ多い気がしたが、

数え直すほどのことでもない。

 

階下では、イェルグがもう食事をしていた。

黒いコーヒーと、硬いパン。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

それだけ。

 

いつも通りだ。

 

 

食事の味は、分かった。

 

塩気。

脂。

焦げ。

 

「薄いな」

 

イェルグが言う。

 

「そうですか?」

 

自分では、ちょうどいい。

 

でも、先生の舌のほうが正しいだろうと思い、

それ以上考えなかった。

 

「今日は移動だ」

 

「はい」

 

「次は川沿いだ。湿気がある」

 

「装備、乾かしておきます」

 

言葉が、滞りなく出る。

何も問題はない。

 

――ただ。

 

イェルグの声が、少し遠く聞こえた。

 

距離ではない。

音量でもない。

 

意味が、直接届かない感じ。

 

(疲れてるのかな)

 

そう結論づける。

 

 

道中、鳥が鳴いた。

 

高く、短く。

 

ルーネは足を止めなかった。

 

以前なら、反射的に振り向いていた。

音に、意味を探していた。

 

でも今は、

ただの音だった。

 

それが良いことなのかどうか、

判断しようとも思わない。

 

川に近づくと、水音が重なった。

反響する。

消えていく。

 

何も呼ばれない。

 

(静かだな)

 

思ったが、口には出さなかった。

 

 

昼、装備を洗う。

 

血は、ついていない。

それでも、念入りにこする。

 

布が、きしむ。

 

「そんなにやる必要はない」

 

イェルグが言う。

 

「はい」

 

手は、止まらない。

 

汚れは、見えない。

でも、落とさないといけない気がした。

 

理由はない。

 

ただ、そうしないと、

何かが残る気がする。

 

何が、とは考えない。

 

 

夜。

 

焚き火は、前より少し大きい。

 

イェルグが見て、眉をひそめた。

 

「明るすぎる」

 

「すみません」

 

すぐ、薪を減らす。

 

暗くなる。

 

暗さに、不安はない。

以前ほど、何かを待つ感じもない。

 

(良いことだ)

 

そう思う。

 

なのに、胸の奥が、少しだけ空いている。

 

音が入る場所が、なくなったみたいに。

 

 

「ルーネ」

 

「はい」

 

「今日、妙だったか」

 

一瞬、考える。

 

「……特には」

 

嘘じゃない。

 

本当に、何もない。

 

「ならいい」

 

それで終わる。

 

先生は、それ以上踏み込まない。

それも、いつも通り。

 

 

横になり、目を閉じる。

 

眠りは、すぐ来た。

 

途中で、声を聞いた気がした。

 

低くて、遠い。

 

でも、内容がない。

言葉にならない。

 

(風だ)

 

そう判断して、意識を手放す。

 

返事は、しなかった。

 

返事をしなかったことに、

誇りも、安堵も、なかった。

 

ただ、選択肢に上がらなかった。

 

 

翌朝。

 

ルーネは、ちゃんと起きた。

装備を整え、道を歩く。

 

検死官として、問題なく。

 

人としても、たぶん。

 

ただ一つだけ、

変わったことがあるとすれば。

 

――声がしないことを、

もう数えていない。

 

それに気づく日は、

まだ来ない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。