第百三話 その後:何も変わらない日
朝は、ちゃんと来た。
ルーネは目を覚まし、天井を見て、瞬きをした。
宿の木目は昨日と同じだ。染みの形も、光の入り方も。
(夢は、見なかったな)
そう思ったが、気にしなかった。
顔を洗い、装備を確認する。
刃物、布、薬草。
数は合っている。
一つ多い気がしたが、
数え直すほどのことでもない。
階下では、イェルグがもう食事をしていた。
黒いコーヒーと、硬いパン。
「おはようございます」
「ああ」
それだけ。
いつも通りだ。
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食事の味は、分かった。
塩気。
脂。
焦げ。
「薄いな」
イェルグが言う。
「そうですか?」
自分では、ちょうどいい。
でも、先生の舌のほうが正しいだろうと思い、
それ以上考えなかった。
「今日は移動だ」
「はい」
「次は川沿いだ。湿気がある」
「装備、乾かしておきます」
言葉が、滞りなく出る。
何も問題はない。
――ただ。
イェルグの声が、少し遠く聞こえた。
距離ではない。
音量でもない。
意味が、直接届かない感じ。
(疲れてるのかな)
そう結論づける。
⸻
道中、鳥が鳴いた。
高く、短く。
ルーネは足を止めなかった。
以前なら、反射的に振り向いていた。
音に、意味を探していた。
でも今は、
ただの音だった。
それが良いことなのかどうか、
判断しようとも思わない。
川に近づくと、水音が重なった。
反響する。
消えていく。
何も呼ばれない。
(静かだな)
思ったが、口には出さなかった。
⸻
昼、装備を洗う。
血は、ついていない。
それでも、念入りにこする。
布が、きしむ。
「そんなにやる必要はない」
イェルグが言う。
「はい」
手は、止まらない。
汚れは、見えない。
でも、落とさないといけない気がした。
理由はない。
ただ、そうしないと、
何かが残る気がする。
何が、とは考えない。
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夜。
焚き火は、前より少し大きい。
イェルグが見て、眉をひそめた。
「明るすぎる」
「すみません」
すぐ、薪を減らす。
暗くなる。
暗さに、不安はない。
以前ほど、何かを待つ感じもない。
(良いことだ)
そう思う。
なのに、胸の奥が、少しだけ空いている。
音が入る場所が、なくなったみたいに。
⸻
「ルーネ」
「はい」
「今日、妙だったか」
一瞬、考える。
「……特には」
嘘じゃない。
本当に、何もない。
「ならいい」
それで終わる。
先生は、それ以上踏み込まない。
それも、いつも通り。
⸻
横になり、目を閉じる。
眠りは、すぐ来た。
途中で、声を聞いた気がした。
低くて、遠い。
でも、内容がない。
言葉にならない。
(風だ)
そう判断して、意識を手放す。
返事は、しなかった。
返事をしなかったことに、
誇りも、安堵も、なかった。
ただ、選択肢に上がらなかった。
⸻
翌朝。
ルーネは、ちゃんと起きた。
装備を整え、道を歩く。
検死官として、問題なく。
人としても、たぶん。
ただ一つだけ、
変わったことがあるとすれば。
――声がしないことを、
もう数えていない。
それに気づく日は、
まだ来ない。