検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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その後:何も変わらない日

第百三話 その後:何も変わらない日

 

朝は、ちゃんと来た。

 

ルーネは目を覚まし、天井を見て、瞬きをした。

宿の木目は昨日と同じだ。染みの形も、光の入り方も。

 

(夢は、見なかったな)

 

そう思ったが、気にしなかった。

 

顔を洗い、装備を確認する。

刃物、布、薬草。

数は合っている。

 

一つ多い気がしたが、

数え直すほどのことでもない。

 

階下では、イェルグがもう食事をしていた。

黒いコーヒーと、硬いパン。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

それだけ。

 

いつも通りだ。

 

⸻

 

食事の味は、分かった。

 

塩気。

脂。

焦げ。

 

「薄いな」

 

イェルグが言う。

 

「そうですか?」

 

自分では、ちょうどいい。

 

でも、先生の舌のほうが正しいだろうと思い、

それ以上考えなかった。

 

「今日は移動だ」

 

「はい」

 

「次は川沿いだ。湿気がある」

 

「装備、乾かしておきます」

 

言葉が、滞りなく出る。

何も問題はない。

 

――ただ。

 

イェルグの声が、少し遠く聞こえた。

 

距離ではない。

音量でもない。

 

意味が、直接届かない感じ。

 

(疲れてるのかな)

 

そう結論づける。

 

⸻

 

道中、鳥が鳴いた。

 

高く、短く。

 

ルーネは足を止めなかった。

 

以前なら、反射的に振り向いていた。

音に、意味を探していた。

 

でも今は、

ただの音だった。

 

それが良いことなのかどうか、

判断しようとも思わない。

 

川に近づくと、水音が重なった。

反響する。

消えていく。

 

何も呼ばれない。

 

(静かだな)

 

思ったが、口には出さなかった。

 

⸻

 

昼、装備を洗う。

 

血は、ついていない。

それでも、念入りにこする。

 

布が、きしむ。

 

「そんなにやる必要はない」

 

イェルグが言う。

 

「はい」

 

手は、止まらない。

 

汚れは、見えない。

でも、落とさないといけない気がした。

 

理由はない。

 

ただ、そうしないと、

何かが残る気がする。

 

何が、とは考えない。

 

⸻

 

夜。

 

焚き火は、前より少し大きい。

 

イェルグが見て、眉をひそめた。

 

「明るすぎる」

 

「すみません」

 

すぐ、薪を減らす。

 

暗くなる。

 

暗さに、不安はない。

以前ほど、何かを待つ感じもない。

 

(良いことだ)

 

そう思う。

 

なのに、胸の奥が、少しだけ空いている。

 

音が入る場所が、なくなったみたいに。

 

⸻

 

「ルーネ」

 

「はい」

 

「今日、妙だったか」

 

一瞬、考える。

 

「……特には」

 

嘘じゃない。

 

本当に、何もない。

 

「ならいい」

 

それで終わる。

 

先生は、それ以上踏み込まない。

それも、いつも通り。

 

⸻

 

横になり、目を閉じる。

 

眠りは、すぐ来た。

 

途中で、声を聞いた気がした。

 

低くて、遠い。

 

でも、内容がない。

言葉にならない。

 

(風だ)

 

そう判断して、意識を手放す。

 

返事は、しなかった。

 

返事をしなかったことに、

誇りも、安堵も、なかった。

 

ただ、選択肢に上がらなかった。

 

⸻

 

翌朝。

 

ルーネは、ちゃんと起きた。

装備を整え、道を歩く。

 

検死官として、問題なく。

 

人としても、たぶん。

 

ただ一つだけ、

変わったことがあるとすれば。

 

――声がしないことを、

もう数えていない。

 

それに気づく日は、

まだ来ない。

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