検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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正しいという歪

第百四話 正しいという歪

 

依頼は簡素だった。

被害者は生きている。暴れていない。村も騒いでいない。

 

「楽な部類だ」

 

イェルグはそう言って、地図を畳んだ。

声に感情はない。ただ事実を述べただけだ。

 

現地の家は静かだった。

戸口に立っても、血の匂いもしない。腐臭もない。

異変があるとすれば――空気が薄い。それだけだった。

 

「検死官です」

 

名乗ると、家人はすぐに通した。

拒絶も恐怖もない。

 

被害者は寝台に座っていた。

中年の男。目は開いている。焦点も合っている。

 

「触ります」

 

ルーネは断りを入れ、手首に指を添えた。

脈拍、正常。皮膚温、わずかに低いが許容範囲。

 

「痛みますか」

 

男は首を横に振った。

 

「ここは?」

 

反応なし。

 

「冷たい?」

 

「……わからない」

 

ルーネは頷き、記録を取る。

ペン先が止まることはなかった。

 

「先生。感覚鈍麻です」

 

「ああ」

 

イェルグは一歩も近づかず、視線だけを寄越す。

 

「進行は?」

 

「緩やかです。日常生活に支障なし」

 

それは、事実だった。

 

家人が不安そうに言う。

 

「治るんでしょうか」

 

イェルグが答える前に、ルーネが口を開いた。

 

「命に関わるものではありません」

 

声は落ち着いていた。

慰めでも、突き放しでもない。

 

「……そうですか」

 

家人は、それで納得した。

 

ルーネは気づかなかった。

自分が“治るかどうか”を一度も考えなかったことに。

 

記録は整っていた。

異常はある。だが、致命的ではない。

 

「成功例だな」

 

帰り道、イェルグが言った。

 

「はい」

 

ルーネは即答した。

胸のどこにも、引っかかりはなかった。

 

被害者の妻は、礼儀正しかった。

声を荒げることも、涙を見せることもない。

 

「ありがとうございます」

 

それだけを、何度も言った。

 

家は整っている。

掃除も行き届き、食卓には温かい汁物があった。

崩壊の兆しはない。

 

ルーネは、その事実を“安心材料”として受け取った。

 

「日常生活は?」

 

問いに、妻は少し考えてから答える。

 

「問題ありません」

 

その言い方は正確すぎた。

曖昧さがない。過不足がない。

 

「食事は?」

 

「摂れています」

 

「睡眠は?」

 

「夜は、眠っています」

 

ルーネは頷き、次の質問に移ろうとして――

一瞬、視線が止まった。

 

被害者の男は、食事中だった。

椀を持つ手が、少しだけ震えている。

 

「落としたりは?」

 

ルーネが聞くと、男は首を横に振った。

 

「……落とさない」

 

声は低く、平坦だった。

 

妻がすぐに補足する。

 

「最近は、こぼさなくなりました」

 

ルーネは、そこに“改善”を見た。

 

「慣れですね」

 

そう言うと、妻は小さく笑った。

 

「そうですね」

 

その笑顔は、間違いなく本物だった。

ただ――喜びではなかった。

 

子供が一人、部屋の隅にいた。

年の頃は七つか八つ。

 

父親を見ている。

じっと。ずっと。

 

「どうしたの?」

 

ルーネが尋ねると、子供は首を振った。

 

「お父さんだよ」

 

そう言って、また黙る。

 

「触れても?」

 

ルーネの問いに、妻は頷いた。

 

子供が父親の腕に手を伸ばす。

触れる。

反応はない。

 

子供は、一度だけ手を引っ込めた。

 

「……冷たい」

 

小さな声だった。

 

妻がすぐに言う。

 

「今は寒いから」

 

理由としては、十分だった。

 

ルーネは、その説明を記録に反映しなかった。

不要だからだ。

 

「感情の変化は?」

 

「ありません」

 

妻の返答は、即答だった。

 

「前と同じ?」

 

一瞬だけ、間が空いた。

 

「……生活は、同じです」

 

ルーネは、それ以上踏み込まない。

“前と同じ人間かどうか”は、質問項目にない。

 

イェルグは、壁際で腕を組んだまま、何も言わない。

 

帰り際、子供がぽつりと呟いた。

 

「ねえ」

 

誰に向けた言葉か、分からない。

 

「お父さん、最近……」

 

妻が、子供の肩に手を置く。

 

「静かにしなさい」

 

声は優しかった。

 

子供は口を閉じた。

 

外に出てから、ルーネは報告書をまとめる。

• 被害者:生存

• 精神状態:安定

• 家族関係:維持

• 社会的機能:問題なし

 

完璧だった。

 

「いい仕事だ」

 

イェルグが言う。

 

「はい」

 

ルーネは、迷いなく答えた。

 

彼は気づかなかった。

 

誰も泣いていないこと。

誰も怒っていないこと。

誰も“触れたい”と言わなかったこと。

 

家族は壊れていない。

ただ、減っている。

 

それは検死では測れない。

生きている限り、記録には残らない。

 

ルーネの報告書は、正しい。

 

――正しすぎるだけだった。

 

 

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