検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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同じ家族、同じ家

第百五話 同じ家族、同じ家

 

再訪は、予定外だった。

 

別件の調査で近くを通り、

「経過観察」の名目で立ち寄っただけだ。

 

家は、変わっていない。

壁も、戸口も、庭の石の配置も。

 

――なのに。

 

「……静かですね」

 

ルーネは、無意識にそう言った。

 

以前も静かだった。

だが、あのときは生活音がなかっただけだ。

 

今は、気配がない。

 

妻が出てくるまで、少し時間がかかった。

 

「どうも」

 

挨拶は丁寧だ。

声も、表情も、以前と同じ。

 

「ご主人は?」

 

「奥にいます」

 

導かれて入った部屋で、男は椅子に座っていた。

姿勢がいい。

視線は、壁に固定されている。

 

「お変わりは?」

 

ルーネの問いに、男は答えない。

 

妻が代わりに言う。

 

「今日も、問題ありません」

 

“今日も”。

 

ルーネは、その言葉を肯定として処理した。

 

「食事は?」

 

「用意しています」

 

「睡眠は?」

 

「夜は、横になっています」

 

子供が、いない。

 

「……お子さんは?」

 

妻の指が、戸口を示す。

 

「向こうで、遊んでいます」

 

声のする方向を見ても、音はしない。

 

ルーネは、気に留めなかった。

子供は、静かな生き物でもある。

 

男が、突然、口を開いた。

 

「……呼ばない」

 

低く、乾いた声。

 

ルーネは反射的に顔を上げる。

 

「何を?」

 

男は、もう何も言わない。

 

妻が、少し慌てて言う。

 

「最近、言葉が減って……でも、医者は必要ないと」

 

ルーネは頷いた。

 

「刺激が減った影響でしょう」

 

正しい推測だった。

少なくとも、書類上は。

 

そのとき、奥の部屋から、小さな音がした。

 

鈍い音。

重いものが、床に落ちた音。

 

「……?」

 

妻が、はっとして振り返る。

 

「すぐ戻ります」

 

駆け足。

 

ルーネとイェルグは、その場に残る。

 

数秒。

十数秒。

 

音は、続かない。

 

戻ってきた妻の顔は、白かった。

 

「……少し、転んだだけです」

 

言い切りだった。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ええ。泣いてもいません」

 

ルーネは、それを“安心材料”として受け取った。

 

部屋を出るとき、

ルーネは、ふと床を見た。

 

――小さな手形。

 

拭き取られた跡が、残っている。

 

「先生」

 

外に出てから、ルーネは言った。

 

「今の音、怪異とは無関係ですよね」

 

イェルグは、即答しなかった。

 

「……無関係だ」

 

少し遅れて、そう言った。

 

帰路につく途中、

背後から、かすかな声が聞こえた気がした。

 

「……ねえ」

 

振り返っても、誰もいない。

 

「気のせいか」

 

ルーネは、歩みを止めなかった。

 

数日後、報告が届く。

 

子供の事故死。

原因:家庭内不注意。

 

記録には、こう書かれる。

 

後遺症は確認されず

精神的影響も限定的

事件との関連なし

 

ルーネは、その報告書を読んで、首を傾げる。

 

「……不運ですね」

 

イェルグは、煙草に火をつけた。

 

何も言わない。

 

ルーネは気づかない。

 

あの家で最初に消えたのは、

感情でも、正気でもない。

 

“呼ぶ”という行為だったことに。

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