第百六話 同僚の視線
検死室は、いつも通りの匂いがした。
石灰と、消毒液と、冷えた金属。
ルーネは手を洗い、布で拭く。
動作に迷いはない。手際もいい。
「……なあ」
背後から声。
同僚のエルメだ。
年はルーネより少し上。現場慣れした検死官で、雑談をしない男。
「何ですか」
「最近さ」
エルメは、解剖台に寄りかかりながら言う。
「お前、ちょっと変だ」
ルーネは一瞬、考えた。
「そうですか?」
「そうだよ」
即答だった。
「具体的には?」
ルーネは真面目に聞いた。
怒りも、警戒もない。
「……死体を見る目が、変わった」
ルーネは、眉をひそめる。
「悪い意味で?」
「分からない」
エルメは、少し言い淀んだ。
「前はな、もう少し……引っかかってた」
「引っかかる?」
「この死に方、おかしくないか、とか。
家族の話、噛み合わないな、とか」
ルーネは思い返す。
最近の報告書。
問題なく、整っている。
「今は?」
「今は……」
エルメは言葉を探す。
「“まあ、こういうもんだ”って顔してる」
ルーネは、少し笑った。
「慣れただけじゃないですか」
「それならいい」
エルメは頷きかけて、やめた。
「でもな」
間を置く。
「慣れってのは、普通、鈍くなるもんだ」
「……?」
「お前は、逆だ」
ルーネは、解剖台の上の遺体を見る。
「逆、ですか」
「ああ」
エルメは続ける。
「感情は出さないのに、判断だけが早い」
「悪いことじゃないでしょう」
「検死官としては、な」
エルメは言った。
「人間としては、知らん」
沈黙。
ルーネは、しばらく黙っていたが、首を傾げた。
「僕、何か見落としてます?」
「……それが分からないのが、おかしい」
エルメは、そう言って肩をすくめた。
「前のお前なら、
“どこが変ですか”って食い下がった」
「今は?」
「“問題があるなら、報告に出るはずだ”って顔してる」
ルーネは、はっとした。
だが、すぐに否定する。
「それは……手順として正しいです」
「正しい」
エルメは同意した。
「正しすぎる」
その日の終わり。
ロッカーの前で、エルメは最後に言った。
「一応、言っとく」
「はい」
「最近のお前、
“生きてる人間”を見る目が薄い」
ルーネは、きょとんとした。
「死体ばっかり見てるからですかね」
冗談のつもりだった。
エルメは笑わなかった。
「……気をつけろよ」
「何に?」
同僚は、答えなかった。
その夜、ルーネは報告書を書きながら、少しだけ考えた。
自分は、変わっただろうか。
紙の上には、整った文字。
後遺症なし
判断に問題なし
ペンは止まらない。
「……まあ」
独り言。
「仕事は、ちゃんとしてるし」
それで十分だと思った。
誰かに指摘される程度の違和感なら、
きっと“誤差”だ。
ルーネは、そう結論づけて灯りを落とした。
同じ部屋で、
彼の判断基準だけが、少しずつ更新されていることに、
本人だけが気づかないまま。