第百七話 踏み越え線
その依頼は、難しいものではなかった。
夜明け前の集落。
倒壊した家屋の裏。
声を残す怪異――分類済み、対処法も確立されている。
「一人で行けるか」
出発前、イェルグはそう言った。
「はい」
即答だった。
本来なら、二人で動く案件だ。
だが危険度は低く、被害も限定的。
何より、ルーネ自身が「問題ない」と判断した。
――問題ないことを、示したかった。
現場は静かだった。
風も弱く、音がよく通る。
瓦礫の間から、声がする。
「……あ」
かすれた、短い音。
「……だれ」
人語に近い。
だが意味は薄い。
ルーネは足を止めた。
深呼吸する。
(返事をするな)
知識はある。
教えもある。
だから、返事はしない。
代わりに、手順を進める。
符を準備し、声の反射を遮断する結界を張る。
「……ねえ」
声が、少しだけ近づく。
ルーネは、眉一つ動かさない。
「……いない?」
(反応する必要はない)
これは試験だ。
自分自身に対する。
“声があっても、応えない”。
それができることを、証明する。
結界は、正常に機能している。
声は減衰し、歪み、遠のく。
「……っ」
怪異は、苦しんでいるようには見えない。
ただ、戸惑っている。
ルーネは、淡々と処理を進めた。
――そのとき。
瓦礫の奥から、人影が出た。
少女だった。
この集落の、生き残り。
「……あの」
ルーネは振り向く。
「近づかないでください」
声は、いつも通り落ち着いている。
「でも……あの声」
少女は、瓦礫の奥を指した。
「ずっと、呼んでて……」
ルーネは、一瞬だけ迷った。
(説明すればいい)
そう判断した。
「それは、応えてはいけないものです」
「でも……」
「応えなければ、害はありません」
事実だ。
理論上は。
少女は、不安そうに唇を噛んだ。
「でも、苦しそうで……」
ルーネは、言葉を選んだ。
「苦しんでいるように見えるだけです」
優しい声だった。
説明として、完璧だった。
「……大丈夫」
少女は、無意識に言った。
その瞬間。
空気が、跳ねた。
声が――反射した。
「だいじょうぶ……」
怪異の声が、少女の言葉をなぞる。
ルーネは、はっとする。
「下がって!」
遅かった。
共鳴は、一度で十分だった。
怪異は、少女の存在に固定された。
声の焦点が、定まる。
「……ここ」
「……いっしょ」
少女は、硬直している。
ルーネは、即座に判断した。
(切るしかない)
躊躇はなかった。
符を投げ、結界を収束させ、核を断つ。
処理は成功した。
怪異は、消えた。
音も、歪みも、残らない。
「……終わりました」
ルーネは、少女に言った。
少女は、頷いた。
泣いていない。
叫んでもいない。
ただ、少しだけ、視線が定まらない。
「大丈夫です」
ルーネは繰り返す。
「もう、安全です」
少女は、また頷いた。
――それで、終わりだと思った。
数日後。
報告書には、こう書かれた。
被害者なし
後遺症なし
対応は適切
イェルグは、何も言わなかった。
同僚も、何も言わなかった。
ただ一人、
あの少女の母親だけが、ぽつりと言った。
「……この子、
最近、自分から喋らないんです」
ルーネは、微笑んだ。
「怖い思いをしたのでしょう」
「でも」
母親は、困ったように笑った。
「呼びかけると、
少し遅れて……同じ言葉を返すんです」
ルーネは、一瞬、考えた。
そして、首を振った。
「よくある反応です」
問題ない。
想定内だ。
――自分は、踏み外していない。
ルーネは、そう結論づけた。
返事をしたのは、自分じゃない。
だから、自分は平気だ。
その論理だけが、
静かに、確実に、彼の中に残った。