検死官イェルグの境界事件録   作:5734589

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何も言われない

第百八話 何も言われない

 

戻りの道中、雨が降っていた。

 

強くはない。

外套を濡らすほどでもないが、土の匂いを立たせるには十分だった。

 

別件で外していたイェルグと合流し、その後ろを歩きながら、報告書の文言を頭の中で反芻していた。

事実だけを書いた。

判断も、手順も、間違っていない。

 

「……」

 

前を行くイェルグは、振り返らない。

足取りはいつも通りで、速くも遅くもない。

 

その沈黙が、気になり始めたのは、村を二つ越えた頃だった。

 

(何も言われないな)

 

叱責は覚悟していた。

少なくとも、何かしらの指摘はあると思っていた。

 

だが、ない。

 

焚き火の準備をするときも。

地図を確認するときも。

食事の配分を決めるときも。

 

「先生」

 

我慢できず、ルーネは声をかけた。

 

「何だ」

 

即答だった。

声音に、棘はない。

 

「……さっきの件なんですが」

 

「どの件だ」

 

「音の怪異の処理です」

 

イェルグは、干し肉を裂きながら言った。

 

「記録は読んだ」

 

それだけ。

 

「……問題、ありましたか」

 

ルーネは、慎重に言葉を選んだ。

 

イェルグは、しばらく何も言わない。

火にかけた鍋を見つめ、沸騰を待っている。

 

「問題はなかった」

 

淡々とした声だった。

 

「教会的には、満点だ」

 

胸の奥が、少しだけ緩む。

 

「……ですよね」

 

「被害者なし。拡散なし。処理時間も短い」

 

一つ一つ、評価を並べる。

 

「俺が同行していても、同じ判断をしただろう」

 

その言葉に、ルーネは小さく息を吐いた。

 

「なら……」

 

「ただし」

 

ルーネは、言葉を止めた。

 

イェルグは鍋を火から下ろし、湯気の向こうでルーネを見た。

 

「俺は、何も言わない」

 

「……はい?」

 

「今回は、指導も修正もない」

 

それは、予想外だった。

 

「それは……良い、ということですか」

 

イェルグは、少しだけ首を傾げた。

 

「どう受け取ってもいい」

 

「先生」

 

ルーネの声が、わずかに強くなる。

 

「僕は、何か……見落としましたか」

 

イェルグは、すぐには答えなかった。

椀に湯を注ぎ、静かに渡してくる。

 

「食え」

 

それは、いつもの言葉だった。

 

だが、今日は違って聞こえた。

 

「……見落としがあれば、教えてください」

 

ルーネは、椀を受け取りながら言った。

 

「次に活かします」

 

イェルグは、ようやく口を開いた。

 

「ルーネ」

 

名前を呼ばれるのは、珍しい。

 

「お前は、自分が“平気である”ことを証明したがっている」

 

ルーネは、返事ができなかった。

 

「それ自体は、悪くない」

 

続く言葉が、やけに静かだ。

 

「だがな」

 

イェルグは、焚き火を見る。

 

「平気かどうかは、本人が決めることじゃない」

 

「……」

 

「周りが、決める」

 

ルーネは、思い出す。

 

少女の、遅れて返ってくる声。

同じ言葉を、少し歪めて返す癖。

 

「でも……」

 

反論しようとして、言葉が見つからない。

 

「死んでいない」

 

ルーネは、ようやく言った。

 

「誰も、死んでいません」

 

イェルグは、頷いた。

 

「だから、成功だ」

 

あまりに正しい答えだった。

 

「俺たちは、検死官だ」

 

「死体がなければ、勝ちだ」

 

その言葉は、いつもなら救いだった。

だが、今夜は違う。

 

「じゃあ……」

 

ルーネは、慎重に尋ねる。

 

「先生は、何を気にしているんですか」

 

イェルグは、しばらく考えた。

 

そして、こう言った。

 

「俺はな」

 

「お前が、今回の件を“問題なかった”と

 思い込むことを、止める理由を持たない」

 

胸が、冷える。

 

「それは……」

 

「つまり」

 

イェルグは、視線を逸らしたまま続ける。

 

「お前が、どこで壊れるかは

 もう、俺の管轄じゃない」

 

その言葉は、叱責ではなかった。

警告でもない。

 

ただの、事実だった。

 

「……先生」

 

ルーネは、何かを言おうとして、やめた。

 

焚き火が、ぱち、と鳴る。

 

「寝ろ」

 

イェルグは、それだけ言った。

 

その夜、ルーネは眠れなかった。

 

静かな夜だった。

声も、怪異も、何も来ない。

 

それでも、胸の奥で、

何かが返事を待っている気がしてならなかった。

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